2022年度チャプレンからの今週の言葉チャペル

2023.1.23

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章13節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 これからどのような人になりたいとお考えでしょうか?この質問について、古代より世界の思想家は美徳のリストを作ろうとしてきましたが、それぞれの文脈によって、異なる美徳を優先しています。例えば、プラトンとアリストテレスによれば、「枢要徳」という4つの美徳がありました。すなわち、それは知恵、正義、節制と勇気を指します。「知恵」とは 、具体的な状況の中で理性を上手に使う美徳です。また、その状況から一般的な規則を作る美徳は「正義」です。しかし、欲望と感情が理性の邪魔をする危険性があるため、この危険を避けるために「節制」という美徳もまた必要なのです。そして、最終的には、決めたことから逃避しないよう「勇気」を磨かないといけません。
 このような考え方はローマ帝国、キリスト教、イスラム教にも重要な影響を与えましたが、聖パウロは、ギリシャ思想から受け取った4つの枢要徳の上に、さらに3つの新しい思想を優先させました。つまり「信仰と、希望と、愛」です。
 「信仰」とは、神が明らかにしたことを信じること、そして「希望」とは将来に神との一致を待ち望むことなのです。そのためには知恵と正義と節制と勇気が必要ですが、信仰と希望は神から直接に明らかにされた美徳なので、哲学者の自然的な美徳を超えます。しかし、全ての美徳を超えて、「最も大いなるものは、愛です。」
 「神は愛」なので、愛は私たちの根源であり、また目指すべきものなのです。私たちは神の愛によって作られ、イエスの姿となって表された神の愛によって救われるからです。ローマ時代の詩人ウェルギリウスが書かれた通り、「omnia vincit amor」、つまり「愛は全てに勝る」。しかし、その愛は一般的な愛ではなく、イエス様が受肉と十字架によって表した形の愛なのです。その愛は、死にも勝るものです。
 「愛」は全ての美徳の冠であって、その美徳を学ぶ学校はキリストの体である教会なのです。イエス様が定められた礼拝を捧げて、他人のために生きることで、私たちは主に似るようになるからです。キリスト教によれば、「良い人」は美徳のリストに定義されなく、イエスに似る人なのです。

2023年1月23日
2023.1.16

「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」
そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。
(ヨブ記 42章3節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「Justifyしない生き方を」 (2023/1/11 成人祝福の祈りでの教話)

 ヨブ記の序文には、ヨブという人が信仰篤く、無垢な忍従の人として紹介されています。しかし、幾多もの苦難がヨブを繰り返し襲う中で、ヨブは次第に神の義しさに疑問を持ち、ついには神に対しての異議申し立てをするようになります。「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」神はヨブに厳しく問いました。神の義しさはヨブに対して、ヨブ自らの義しさに傲った、その不遜な態度、自己絶対化/Justifyからの決別を厳しく求めるものでした。Justify/自己絶対化は、他者とのつながりを確実に破壊し、自己をも孤独の沼に引き込んで往きます。そこに遺るのは深い哀しみだけです。ゆえに、神は慈しみ深い御手をもって、ヨブが、もうこれ以上、自己絶対化という深い闇の森に迷い込まぬように支えたのでした。

 人間は、すごく愚かなところを抱えていて、己の義しさというものをなかなか疑うことをしません。今の自分をJustifyして、傲っていることにも気づかないでいます。だからこそ、ボクたちは、ヨブのように、己の義しさに傲る自己を「外」から見つめ直し、自己絶対化に生きる過ちに気づく必要がある、と想うのです。そうすることで、ボクたちは、はじめて自己の傲りと他者への不遜から、Justifyしない、という自己に生き直すことができます。

 今年、新成人となられた皆さん。
 「成人」になるということは、ことさら、自律する必要性を意識させます。しかし、自律とは、誰にも頼らずに生きて往く、ということではありません。自分は、誰にも頼らずに生きている、という過信は、いつしかJustify/自己絶対化という沼に自らを墜とします。自律した人には、逆に他者に寄り添う感性があります。他者と生きるために、絶対にJustifyしない。そうやって自己をControlすることのできる人が自律した人です。だからこそ、他者との関わりの中に分け入って、そのまなざしをもって、自己を見つめ直すこと。そして、傲慢と不遜しか生まない、そんな己の偏った義しさを手放す勇気を、どうか恐れない人を生き抜いてください。
 皆さんのこれからの歩みがたとえ困難を伴うものであったとしても、神が皆さんに先立って進み、往く道を明るく照らしてくださることを。そして、この先の皆さんの未来が豊かで恵みに満ち溢れたものとなるように心から祈ります。
 新成人、ほんとうにおめでとうございます。

2023年1月16日
2022.12.19

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
(ヨハネによる福音書 15章5節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 親類の家に立ち寄ったときのこと、そこで暮らしている高校生が「これから友だちと遊んでくる」そう言って自分の部屋に入っていった。聞けば、ネット上で友だちと待ち合わせして、サッカーのオンラインゲームをするそうだ。ネット上で待ち合わせとは、時代が変わったと実感させられた。

 新型コロナウイルスの感染蔓延が大きく影響し、テレワークやオンラインミーティングなどは私たちの日常になった。他人の息遣いや体温を感じることなくコミュニケーションが取れる、もはやこれは新常識になりつつある。今後ますます様々な業種のAI化やロボット化が進んでいくことが予想され、今よりも少ない人数で社会を動かしていくことができるようになるだろう。会わなくても、出かけなくても済む。それは合理化、効率化と言われるが、「人が要らなくなる」ことは本当に「進化」と言えるのだろうか。「生身」の人として生きることの意味がより一層問われることになり、その大きな課題を抱えて生きることになるのではないかと心配になる。

 そう言っておきながら、「そんなに心配することもないか」とも思っている。
 赤い顔をした会社員風の人たちが肩を組んで歩いている。若い二人が向かい合って微笑みながらコーヒーを飲んでいる。小さな子が大泣きしながらお菓子売り場で親を困らせている。おばあさんとおじいさんが公園をゆっくり歩いている。

 たくさんの人が「誰かと生きていること」を、ちゃんと知っている。たとえコミュニケーションが合理化、効率化されても、自分以外の誰かを感じて生きるという喜びをちゃんと知っている。
 人は独りで完結しない。共に生きるという非合理的で非効率に思える営みが、「生身」の人間であることの意味を私たちに教えているのではないだろうか。

2022年12月19日
2022.12.12

愛は、すべてを完成させるきずなです。
(コロサイの信徒への手紙 3章14節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 東日本大震災から2年後の2013年3月にポール・ラッシュ・アスレティックセンターが竣工しました。大学と池袋中高の学生生徒が授業、課外活動で利用することを目的で建設された、地下2階・地上5階建ての総合体育館で、室内温水プールを含め充実した施設が整備されています。定礎石には「愛はすべてを完成させる絆 2013年3月」とあります。もうすぐ竣工10年となります。
 東日本大震災の年は、その1年の世相を漢字一字で表す語に「絆(きずな)」が選ばれました。特に震災支援に関連して、この言葉は多様に用いられてきました。この「絆(きずな)」は聖書にも出てきます。コロサイの信徒への手紙3章14節に「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(新共同訳聖書)とあります。以前の口語訳聖書では「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」と訳されています。翻訳が難しい箇所ですが、すべてを完成させる結びの帯、きずなにせよ、ここには「共に結ぶもの」という意味があります。愛がきずなを、帯を完成させていきます。きずなは、こうした愛に基づくものです。愛と真理に基づく共同体としての私たち、そして私たちの立教でありたいと願うのです。

※ポール・ラッシュ・アスレティックセンターと施設の名を冠するポール・ラッシュ(1897-1979年)は、アメリカのケンタッキー州で育ち、関東大震災が契機となり1925(大正14)年に初めて来日します。翌年、立教大学の教授となり、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の設立などに尽力し、現在のキープ協会の中心施設となる清泉寮を山梨県の清里に建設し、高地農業と青年教育に大きな貢献をいたしました。「最善を尽くせ」と語るポールの背景には、人をみる、人を育てる優しさ、まさに愛が感じられます。また「アメリカンフットボールの父」とも称され、まさにスポーツと平和を結ぶ帯となりました。「今週の言葉」が更新される本日12月12日は、逝去43周年記念となります。

2022年12月12日
2022.12.5

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
(マタイによる福音書 2章2~3節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 学生の頃、クリスマス・シーズンになると、大学のクリスマス礼拝で奉仕するために学生有志による聖歌隊が編成され、私もメンバーに入っていました。クリスマス礼拝が終わると、私たちはクリスマスの喜びを伝えるために、大学の最寄り駅の改札前やショッピングセンターの広場に向かい、そこで道行く人たちへクリスマスの聖歌を歌いました。道行く人たちは足を止め、私たちの聖歌を聴いてくださり、拍手をしてくださいます。クリスマスの喜びが伝わったのです。しかし突然、「うるさいから出て行け!」と近所に住む方が怒鳴り込んできました。確かに、近所の方々に許可を取らずに大声で歌っていたので、迷惑をかけてしまったと、その方に謝罪をし、聖歌隊はその場で解散しました。キリストの誕生をお祝いする歌を歌い、道行く人たちも喜んでくださっている中での苦情に、「あんな文句を言う人にクリスマスなんて来なければ良いのに!」と若気の至りで文句を言う学生も何名かいました。
 「クリスマスなんて必要ない」と思っている人もいることでしょう。この様な声を聞く時、私たちは「クリスマスを楽しめない人のひがみだ」と思ってしまうかもしれません。しかし、マタイによる福音書のクリスマス物語では、キリストの誕生を拒否した人物がいます。イエス・キリストの時代にユダヤ地方を統治していたヘロデ王です。新しい王であるキリストの誕生を聞いたヘロデ王は、真っ先に新しい王の存在を消すために、キリストの生まれた場所を探そうとします。新しい王の存在は、現在の王であるヘロデの存在を脅かしたからです。しかし、神様は新しい王が誕生するからと言って、ヘロデ王の存在を消そうとはなさいません。むしろ、新しい王の存在をヘロデに教えることで、クリスマスを拒否したい人をも、クリスマスの喜びに招いているのです。神様はクリスマスを拒否した人にこそ、人を愛する喜びを伝えたいのです。
 クリスマスを喜べる人は「人生を満喫している人」、「仲間に恵まれた人」だけではありません。マタイ福音書に記されているように、神様は全ての人々をこの世の苦しみ、痛み、悲しみから解き放ってくださる救い主キリストの下へ招いてくださっています。そこには神様を信じているか信じていないかは関係ないのです。

2022年12月5日
2022.11.28

見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。
到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。
(マラキ書 3章19~20節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 スーパーでは、11月に入るとクリスマスの音楽が流れ始めますが、キリスト教の暦によれば、早いです。実は、キリスト教の教会暦では11月の末に1年が終わり、12月から新しい年が始まり、「降臨節」という季節になります。
 降臨節とは、主イエスがこの世に来ることを待つ期間です。クリスマスの準備の季節でありますが、別の意味も持っています。というのは、イエスが再びこの世を裁きに来ることです。
 キリスト教の目的は、天国のために魂を訓練することであって、一言で言えば、「死の準備」なのです。しかし、神様がキリスト教が主張するように「良い方」であれば、また私たちを裁く方がベツレヘムで生まれた優しいイエス様であれば、なぜその「日の出」ということを恐れるべきでしょうか?「良い方」といわれる神様が、本当に人を地獄に送って、「燃え上がらす」のかというのは、よくある質問です。
 マラキは神を太陽と表します。暑い日に、外に出かける前、ふさわしい服を選んだり、日陰がある道を考えたり、水を持ったり、日焼け止めをつけたりすることを含めて、色々な準備をしなければなりません。暑さに慣れるために日焼けサロンに行くのもいいかもしれませんね。そうしなければ、暑さに慣れないで外に出ると、日焼けしてしまいます。
 神もそうです。精神的な準備をしなければ、「義の太陽」が昇る時に、その暑さを日焼けのように感じてしまいますが、この世に暮らしている間、神の暑さに少しずつ慣れてくることができれば、日の出の日に、その同じ暑さは豊かな命を与える温かさのように感じます。
 しかし、その太陽が昇ることへの準備とは、何でしょうか?要するに、神は愛だから、神の裁きのための準備も愛なのです。神と隣人を愛すれば、全ての悪を燃える「義の太陽」の暑さに、この世の中でも慣れることができます。キリストの愛の中で人生を暮らせば、義の太陽を恐れるべきではなく、歓迎すべきになります。永遠の喜びを与える光だからです。

2022年11月28日
2022.11.21

神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」
(創世記 2章16~17節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「知り直す」

 この時期、卒業後の進路についての報告を聴く機会が増える。報告に来てくれる学生たちの顔には、一様に安堵の表情が見て取れる。しかし、それを手放しで喜べないのは、その安堵の表情の向こうに、学生たちが、その過程でどれだけ傷つけられてきたか、悔しい想いを重ねてきたかを知っているからだ。誰もが自分の進路に納得しているわけではない。

 この時代、わたしたちの存在はいつも「もし~できれば」という条件つきでしか肯定されない。そうやって、つねに資格と能力が問われ、だから、就活に臨む学生たちは、自分にできること、自分にしかできないことを自らに問い、必死にエントリーシートや履歴書に書き込むことになる。しかし、それらは、人の属性に対する査定であって、人の存在に対する、その価値性に対する承認とは大きく異なる。そもそも、人の存在を査定することなど、誰もできない。それ以上にゆるされていない。にもかかわらず、そうした査定と承認の交錯によって、学生たちは不要に傷つけられていく。

 創世記に記された、人の創造物語の基調は、人間の自己絶対化への警告と云われる。神は「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない」と命じられた。それは、人は善悪の知識を自身の内に持つことによって、命(関係)を失うから。私のいのち、私の存在は、他の誰かとの関係のなかで保たれるものである。その関係は、善悪、上下、合否などの査定が入り込む余地もない、この私という存在を無条件に承認してくれるような愛に満ちた関係のことである。

 神は、人を無条件に「良し」とされる。そのことで、人は生きることができる。神の良しは査定ではなくて、存在を価値とすること。英語で「認める」ことをレコグナイズというが、レコグナイズの本意は、改めて知ること、知り直す、と解されるそうである。神は、人を無条件に「良し」とされる。この真理を私たちは、この時代、改めて知り直す必要があるように想う。そして、そのような存在承認の切要こそ、若い人たちには届けたいと想う。

2022年11月21日
2022.11.14

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
(出エジプト記 3章12節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 教会の暦で11月は「逝去者の月」と呼ばれ、多くの教会ですべての逝去者をおぼえて祈りがささげられます。逝去者を想うことには、自身が経験した「失う悲しみ」をもう一度思い出すことが伴います。しかしそれは、悲しみの追体験では終わりません。どのような日々を一緒に過ごしたか、どのような会話を交わし、どのように笑い合い、支え合い、共に生きたか。逝去された方との結びつき、その温かさがよみがえってくる言わば「再会の喜び」が与えられます。そして、今の自分に向けられた慰めや励ましの声を、すぐそばで聴くような思いがするのです。

 自身が歩んできた道を振り返ってみると、そこかしこに他者が生きた証、確かな足あとがたくさんあり、それによって自分の物語が彩られてきた、いつも誰かが一緒に生きてくれていた、そして今も誰かと一緒に生きているとの思いに至ります。独りで生きているのではない、ここに大きな希望を見出します。
 私たちが想い起こす逝去された方々は、今、どのような思いを語りかけているのか、しばらくの間、その声に心を開いてみるひと時を過ごしていたいと思います。

2022年11月14日
2022.10.31

主を畏れることは知識の初め
(箴言 1章7節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 過日、理学部の研究室に所用があり13号館を訪ねました。13号館は、4号館の奥に位置しますので、外見上あまり目立ちません。地下1階、地上6階建てで、理学部の実験室、研究室が集中しています。その入り口傍の外壁に定礎があり、そこに「主を畏れることは知恵の初め 2002年4月」とあります。今年は竣工20年となります(9月26日の「今週の言葉」では、竣工30年となる「ウィリアムズホール」の定礎「信 望 愛」を紹介しました)。

 旧約聖書の中に「箴言」という書があります。箴言1章7節には、「主を畏れることは知識の初め」(聖書協会共同訳 2018年)とあります。定礎の「主を畏れることは知恵の初め」は、1987年から用いられてきた聖書翻訳の新共同訳によります。これまでの「知識」を「知恵」と訳しています。しかし近年の翻訳は、従来のように「知識」としています。このほうが原語に近いと思います。また「主」を「神」と置き換えたほうが、理解しやすいかもしれません。つまり神を畏れること、これが知識のはじめとなります。
 「神を畏れることは、自然科学のはじめである」と強調する科学者もいます。またあるキリスト教系の学校では「神を畏れることは知識の初め」をスクールモットーとしています。神を畏れることは、学問のはじめにも通じます。
 私は「神を畏れることが信仰のはじまり」に通じていくと思います。知識の「知る」という行為は、単に理知的なものではなくて、神と私たちが一つになる、こうした動的な意味が聖書の知るという言葉であります。ですから神を畏れるということは、「神と一つになる」ことのはじまりと捉えることができます。換言すれば「神と共に歩むこと」のはじまりとなります。

2022年10月31日
2022.10.24

「デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」
(ルカによる福音書 10章35節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 アメリカのハーバード大学教授で政治哲学者のマイケル・サンデル氏は、世界的に広がる貧富の差が生まれた原因の一つに能力主義を挙げています。サンデル氏は、あるTVのインタビューで、この能力主義を次のような徒競走に例えています。成功者は「皆、同時にスタートして、一番速かった自分が勝った。」と考えます。しかし他の人々は「これは公平な徒競走ではない。スタートの時点で、コーチに指導を受けられた人がいるのはどうなのか?」と考えます。つまり徒競走に勝つための努力の他に、生まれた時からの才能、練習できる機会、コーチの指導、栄養管理、そして性能の良い靴などが、スタート前から勝利者に与えられていると言うのです。サンデル氏は、この様な富裕層と貧困層の分断が世界で起こっていると言います。

 新約聖書ルカによる福音書に記されている「善きサマリア人」のたとえ話はあまりにも有名です。ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中に盗賊に襲われます。この人が倒れていると、当時模範的な人間だと思われていた祭司とレビ人が通りかかりますが、誰も盗賊に襲われた人を助けようとしません。しかしユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人がこの人の前を通ると、サマリア人は彼に手当てをし、宿まで連れて行き、更に「デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」と治療費まで支払うのでした。登場するサマリア人は見ず知らずの人のために銀貨2枚、当時の2日分の賃金相当を惜しみなく支払っていることから、財産に少し余裕があったということが想像されます。つまり余った分を他者のために捧げているのです。イエスはこのサマリア人のように、隣人に仕えることを読者である私たちに語られています。この考え方が皆さんの周りに、日本に、そして世界に広がればどうなるでしょうか。少なくとも世界から貧困という問題は解決されるのではないでしょうか。
 それぞれが余っている力を惜しみなく他者へと注ぐことで、隣人愛は実行できるはずです。皆さんが他者に分け合える力はいったい何でしょうか?その力を何らかのかたちで他者に分け合うことはできないでしょうか?自分のために、そして世界を少しでもよくするために、ご自身の能力をじっくり考えてみましょう。

2022年10月24日
2022.10.17

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
(ヨハネによる福音書 14章20節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 17世紀のフランス人哲学者ルネ・デカルトの有名な言葉“cogito, ergo sum”、つまり「我思う、ゆえに我あり」は、「私は自分の存在しか、何も確かめることができない」という意味です。従って、人のアイデンティティーは他人と世界との関係に定義されることではなく、自分で考えて決めるということでした。この啓蒙時代的な考えは「個人」という言葉の元です。「個人」とは、明治時代以前には記録されず、英語の「individual」を翻訳するための新語でしたが、英語でも「individual」という言葉は17世紀以前、「人」を示す使用は記録されていません。「個人主義」によれば、人は関係に定義されるべきではなく、社会と家族、つまり要するに全ての他人から区別されるべきです。

 しかし、キリスト教も、仏教も、「個人」より昔の「人間」という概念を持っています。「人間」という中国語の言葉は10世紀の仏教の文書で表れます。漢字の意味を考えたら、「人」の意味は当たり前ですが、「間」の意味は、特に日本の伝統的な美術において、大事な概念です。例えば、合気道や剣道では、相手の間合いを考える必要があります。生花や墨絵の構図では、花と石そのものの上、その間の空間の形も重要です。同じく、「人間」という言葉も、人の間の関係性に着目します。「個人」と逆に、「人間」という言葉は、人がその間の関係性に定義されていることを表します。

 「人は島嶼にあらず」と英国詩人ジョン・ダンが書きました。この真実は聖三位一体である神の本質も表します。というのは、全てのものの源である神は、三人の個人ではなく、父と子と聖霊の一つの交わりなのです。神の形に創造された人間も、その交わりに歩みますように。わたしたちは他人が自分の「内にいる」ことを悟ったら、「敵」だと考えられないようになるでしょう。

2022年10月17日
2022.10.10

「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マタイによる福音書 9章13節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「ブリコラージュ」

 9月初め、義理の母が他界しました。義母が暮らした家は未だそのままになっていますが、その家には、5年前に逝去した義父の「ブリコラージュ」が溢れています。
 「ブリコラージュ」とは、一般的には、「器用仕事」とも「工夫仕事」とも訳されますが、要は、持ち合わせのモノで修繕する、といった、知恵と業のことだと云われています。
 「ここに棚があったら便利」との義母のオーダーをおそらく義父は聴いたのでしょう。お世辞でも上手とは云えない、手作り感満載の棚が台所には遺されていたりします。他にも、そんな父の「ブリコラージュ」が、二人が暮らした家のいたるところに散見されます。
もともとは、本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つモノを作る、との意味が「ブリコラージュ」との言葉にはあるのだそうです。確かに、義父がつくったモノたちには、かつては違うモノであったことが判る痕跡が残っています。
 手持ちのモノを工夫して、これまでとは違うカタチに組み合わせ、新しい用途に用いる、とした、そんな「ブリコラージュ」の概念は、どこか、人びとの関係についても云えるように想えてきます。人びとの結びつきをまた違う結びつきに編み直すことで、今までとは違う希望を見たり、新しい推力が生まれたりすることがあります。
 暗闇に沈んだ人が再び前を向けるように、不安を覚える人がうずくまりから立ち上がれるように、大切なモノを失った人の哀しみが哀しみでなくなるように、人と人とを結び直し、そこに新しい意味と価値を与えた・・・・ そんなイエスという人の仕事もまた、「ブリコラージュ」と云えるモノだったと想うのです。
 人の存在が貶められることが常態化した、この日常の中で、人の存在、そのものが祝福されるための神のブリコラージュが行われることを心底祈ります。そして、その神のブリコラージュの先には、今まで見たこともない、素敵な人と人とのつながりが広がっていることを信じつつ、わたしたちも、新たに結び直される者で在りたいと想います。

2022年10月10日
2022.10.3

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
(創世記 15章5節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 この聖書の言葉は、神がアブラム(後のアブラハム)に対して告げた言葉です。家長であったアブラムは、後を継ぐことになる子孫に恵まれず、神の祝福を受けていないと感じていたのですが、神はアブラムの目を天空に向けさせ、そこにある星に思いを向けます。

 アブラムが目を向けたその先にはどこまでも広がる夜空があり、そしてたくさんの星が瞬いていたことでしょう。その時アブラムの心には、深い闇夜への恐れよりも、そこで輝く小さな光がもたらす希望が満たされていきました。闇の方が広いのに、それでも小さな光が心に宿っていったのです。アブラムが仰ぎ見た夜空には、そのような神の想いが込められていたのではないでしょうか。

 私たちの目は自然と光に反応するようにできており、暗闇を追うようにはできていません。でもなぜか、私たちは闇を数えます。不安や恐れ、不平や不満、欠点や至らなさ、そういった闇を見つけては、その広さや深さにおののいてしまうのです。
 ですが、闇によって希望は無きものにはされないことを聖書は告げています。そして私たちの心は必ず光を見つけられるはずなのです。
 ときに夜空を見上げて、そこにある小さな星を見つけてみてはどうでしょうか。狭い都会の夜空ではなかなか見えづらくても、確かに光るものがそこにあり、私たちに何かを語りかけています。

2022年10月3日
2022.9.26

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章13節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

「信 望 愛」

 「ウィリアムズホール」(学生関係施設)は、今年で竣工30周年となりました。「池袋キャンパス発展計画」の第1号の施設です。1991年から老朽化した既存学生関係諸施設(部室)の建て替え工事が始まり、1992年3月末竣工し、4月中旬から学生の利用が開始しました。これまでの課外活動の拠点となる部室は、60数年経過しているのもありました。かつての卒業生は、学内の数箇所にあったその部室を懐かしく思い起こすでしょう。さて竣工が近づく数カ月前、立教学院理事会はこの施設の名称を、「ウィリアムズホール」と決定しました。本学の創立者ウィリアムズ主教を記念しての名称です。その後もマキム、ロイド、ポールラッシュ等の名が冠せられる学び舎が誕生することになります。

 さて「ウィリアムズホール」の中央入り口には「定礎」があります。そこに「信 望 愛 1992年3月」と刻まれています。現在の学内の学び舎の多くにも「定礎」があり、多くは竣工年と「聖書」の言葉が記されています。当時の大学・学院代表者が聖句を選ばれたと推察されます。定礎の「信 望 愛」は、コリントの信徒への手紙一13章13節にある聖パウロの言葉から引用されています。
 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」。

 この「信仰、希望、愛」から「信、望、愛」と略記され用いられています。新約聖書の原語(ギリシア語)では「ピスティス、エルピス、アガペー」となります。この聖書箇所は「愛の賛歌」とも呼ばれ、立教大学の入学式では、伝統的にこの13章が朗読されています。信仰、希望、愛の中で「最も大いなるものは、愛です」とあります。愛は神の本質です。聖書は「神は愛です」と語ります。究極的な愛は神だけに帰します。ぜひ味読ください。最近の聖書協会共同訳から引用します。

コリントの信徒への手紙一 13章より
 そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

2022年9月26日
2022.8.31

立教大学チャプレン団
旧世界基督教統一神霊協会(現:世界平和統一家庭連合)に関する「緊急メッセージ」

主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。
(詩編 100編3節)
立教大学で学び、勤務されている
学生・教職員の皆さまへ

 本年7月8日に起きた、安倍元首相に対する銃撃事件以降、旧世界基督教統一神霊協会(現:世界平和統一家庭連合。以下、「統一協会」と称す)と政界との関係性が問われる中、統一協会による高額な献金被害など、様々な問題が表面化されるにつれ、「宗教」そのものへの警戒感が高まっているように感じます。
 統一協会は、文鮮明という教祖によって1954 年に韓国で創立された新興宗教です。『原理講論』という教典に教義を置き、聖書を独自に解釈し、伝統的なキリスト教が保持する、キリストによる十字架による贖い、復活という救いの完成を否定し、文師こそがすべての啓示を完成する真のメシア、最後の救い主であると主張しています。
 私たち立教大学チャプレン団は、立教大学が信仰的支柱とする聖公会と、この統一協会とが、信仰的にも組織的にも全く関係のないこと、そして、その実態から見て宣教協働の対象でもあり得ないことを明確に皆さんにお伝えします。どうぞ、歴史的で正統なキリスト教信仰に立つ立教大学をこれまでのように信頼し、安心して学び、働きを続けて欲しいと願います。立教大学が皆さんの「自由」を奪うことは決してありません。
 また、私たちチャプレン団は、統一協会によって、家庭を破壊された人々が今も苦しんでいることに目を向けつつ、この立教という学び舎で学び、働く皆さんが、かけがえのない人生という尊い時間を奪われることがないように、そして、新たな被害者とならないように、あらためて注意を呼び掛けます。
 統一協会は、現代社会の歪み、人びとの間での分断や懐疑などにより、目的を失い、生きがいを見つけられず、人生に不満を持ち、孤独で悩む人びとに、自らが統一協会であることを明らかにせずに、接近し、働き掛けて来ると考えられています。またボランティア活動や環境、社会問題に関心が高い学生ほどターゲットにされやすいとも指摘されています。少しでも「怪しい」と思ったら、速やかにチャプレンたちにご相談ください。
 私たち立教大学チャプレン団は、皆さんを傷つける如何なるものからも、皆さんのことを守りたいと願っています。

2022年8月31日
2022.8

広島・長崎への原爆投下、敗戦を想起し、
世界の隅々にまで平和が実現することを願って。
 この8月、チャペルでは、「広島・長崎への原爆投下、敗戦を想起し、世界の隅々にまで平和が実現することを願って」祈ります。
 日本は今年戦後77年を迎えます。その77年という歩みは二度と過去の過ちを繰り返さないことを誓う歩みでした。しかし、ロシア軍のウクライナ侵攻により、一気に世界間の軍事的緊張が高まり、日本でも憲法改正、軍事力の強化、また核兵器を自国の領土に保管できる核シェアリングの模索が急速に進められるに至っています。
 過去の戦争で犠牲になった人びとに想いを馳せ、再び、過ちを犯さないことを、今、わたしたちは互いに誓い合う必要を思います。どうか、あなたの祈りを重ねてください。わたしたちが暮らす、この世界が愛と平和と正義に満ちたところであるために。

※式文はチャペルに置いてありますが、下部のリンクからも全文をご覧いただけます。(A4両面印刷、縦二つ折りにしてご利用ください)
2022.7.18

主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。
(イザヤ書 40章31節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 来たる8月15日で太平洋戦争から77年の時が経ちます。3年前、あるインターネット番組で、8月15日に渋谷を歩く若者たちに、「今日は何の日?」とインタビューしたところ、その正解率は何と約30%でした。この数字だけを見ると、戦争証言者が減少し、国民の約8割があの戦争を体験していない現代において、戦争のことを次世代へ伝えるにはどの様にすれば良いのでしょうか?また、あの戦争に興味・関心がない人に、その事実を伝える意義がどこにあるのでしょうか?
 紀元前598年に大国バビロニアによってエルサレムが占領されたことを皮切りに、イスラエルの上流階級の人々がバビロニアへ捕囚として連行される事件が起こりました。これを「バビロン捕囚」と言います。バビロン捕囚は、イスラエルからすれば暗い歴史の一幕であり、決して誇れる歴史ではありません。しかし預言者たちは、このバビロン捕囚の事実を次世代、特にいずれ現れるバビロン捕囚を体験していない世代に伝えるという神様からの使命を受けて、旧約聖書の「預言書」という形で次世代へ伝えるために執筆を始めます。預言書が執筆されたのは紀元前という遥か昔のことですが、過去の過ちを繰り返さないために、各時代の人々によって現在まで受け継がれています。
 過去に起こった悲惨な歴史を知らなければ、平和を築くことはできません。戦後77年、この国が一度も戦争に巻き込まれなかったのは、間違いなく過去の悲劇を次世代に語り継いでいる結果です。しかし今後、戦争に興味・関心を示さない人は増えていくでしょう。皆さんは、第2次世界大戦や太平洋戦争に興味・関心がなくなった未来がどうなっているのか、想像できますか?

2022年7月18日
2022.7

コロナ禍にあって今も傷ついている人たちのために
-新型コロナウイルスによって苦しむ人々の癒やしを願って-
 この7月、チャペルでは、「コロナ禍で今も傷つき続けている人たち」のために祈ります。
 日本では、ワクチン接種の効果によって、変異株(オミクロン)の急速な感染拡大の抑制を実現し、現在は、緊急事態宣言も、まん延防止等重点措置の対象となっている地域も皆無となっています。そして今、3年ぶりに「普通」の夏休みを迎えようとしています。しかし、だからと云って、一人ひとりの行動が、大切な人の命と暮らしを守るということが反故になるわけではありません。それ以上に、今年2月、ロシア軍がウクライナに侵攻すると、世界の関心はCOVID-19のパンデミックからウクライナとロシアの戦争に一気に移行した感がありますが、その戦争は、コロナ禍で傷ついた人びとの「生き難さ」をさらに深く重いモノとしています。どうしたら、誰も孤立せずに「つながる仕組み」を再構築していくことができるのか、むしろ「今」の方がその課題が大きくなっているように思われます。
 どうかチャペルで、祈りの中で、その思索について想い巡らす時を過ごしてみてください。

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◇新型コロナウイルス感染症患者・医療看護に携わっている方々のため
世の救い主よ、主は十字架の苦しみによってわたしたちを贖われました。どうか、わたしたち、ことにこの度の新型コロナウイルス感染症の苦しみ、不安の内にある人々を救い、癒しのみ手を差し伸べてください。また、医療と看護に携わる人びとの働きを助け導き、み力をもってその人びとを守り、励ましてください。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

◇新型コロナウイルス感染症によって亡くなられた方々のため
永遠にいます全能の神よ、新型コロナウイルス感染症によって尊い命を失った方々の魂をすべての重荷から解放し、主の聖徒とともに永遠のみ国で安らかに憩わせてください。また、悲しみの中にある方々に主の慰めが与えられますように、命の贖い主であられる主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン
(2020年3月4日 日本聖公会東京教区主教教書より)


◇新型コロナウイルス感染症に罹患したときの祈り
慈しみ深い神よ、今、病いのうちにあって苦しむ私に目を留め、不安と孤独に打ちひしがれることがないようにお支えください。どうか重症化することなく、早い回復をお与えください。そしてまた私の大切な人たちをこの病から守り、誰にもうつることのないようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

※式文はチャペルに置いてありますが、下部のリンクからも全文をご覧いただけます。(A4両面印刷、縦二つ折りにしてご利用ください)
2022.7.11

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
(マタイによる福音書 16章18節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 6月29日は、教会では聖ペトロと聖パウロの逝去記念日としています。この二人の使徒が教会の最も偉大な指導者だったので、教会はそれらの祝日を大事にして、この日に新しい執事と司祭の叙階をする伝統があります。実際に、私は9年前のこの日にイギリスの聖オルバン修道院で司祭叙階を受けました。したがって、この時期になると、聖ペトロはどのような指導者だったのか、よく考えます。

 一言でいえば、ヘマをよくする人でした。例えば、ペトロは湖の上を歩き始めて、沈んでしまいました。また、ペトロはイエスが「メシア」だと正しく認めたところでしたが、そのあとイエスの言ったことに反対して、イエスから「サタン」と呼ばれました。また、イエスに決して裏切りしないと約束しておきながら、鶏が鳴くまでに、イエスを知らないと3回嘘をついてしまいました。

 しかし、イエスはこの不器用な者を「この上に教会をたてる岩」と呼びました。イエスの親戚ヤコブでも、商才があるユダでも、より愛されているヨハネでもなくて、ペトロを教会の指導者として選択しました。教会の最初の指導者は偉い天才ではなく、普通の漁師であるペトロでした。教会は天才のためだけに作られたものではないからです。ペトロみたいな罪人も教会の中で、聖人になることができます。教会の存在は人間の才能に頼らず、神の恩恵に頼るからです。私もよくヘマをしますが、このことを神に感謝いたします。

 聖人を含めて、どんな人にも、良いところと悪いところ、美徳と悪徳があるでしょう。皆、同じではありません。教会の中で、皆と同じようになることは必要ではありません。神様は、良い指導者のように、私たちの悪いところを優しく直して、良いところを上手に使います。そうやって、弟子たちを成長させます。

 私たちがたとえ弱い存在であっても、聖ペトロのように神の恩恵が受けられるように祈ります。

2022年7月11日
2022.7.4

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。
竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝てなかった。
そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。
(ヨハネの黙示録 12章7~9節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「無縄自縛(むじょうじばく)」

 「無縄自縛」とは、ありもしない「縄」で自分を縛ることです。
 禅宗の語で、不確かな常識、ありもしない固定観念、偽りの情報などと云った「縄」に縛られて、「どうせ自分には無理だから」、「やっても無駄だから」・・・・・そう、自らの可能性を自らで諦めてしまうこと、そして、本来であれば得られるはずの自由を前に自分の方から遠ざかってしまうことへの警告の言葉として、鎌倉時代初期に生きた禅僧、曹洞宗の開祖として知られる、道元によって語られたものと伝えられています。

 何故、「無縄自縛」が退けられるのか・・・・・ それは、諦めというものが、人の成長を止めてしまうからです。成長とは、人がもっと見晴らし良いところに立つために、それぞれに備わっている賜物です。それを、ありもしない「縄」に縛られて、手放すのはあまりにももったいないことだと思います。「無縄自縛」・・・・・ 自らの成長を放棄した人生が如何に退屈であるかを悟った、道元からの、時代を突き抜けたメッセージに聞こえます。

 ヨハネ黙示録に記される「巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」は、「無縄自縛」で云われる「縄」と倒置されます。それらは神によって投げ落とされた、というのがキリスト教の信仰です。もう、わたしたちを縛る「縄」はないのです。どこにもないのです。わたしたちは解放されているのです。
 
 さぁ、そろそろ、あなたの、その「縄」を捨てて、前に顔を向けて、歩きはじめても良い頃ではないですか。

2022年7月4日
2022.6.27

主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
主がその手をとらえていてくださる。
(詩編 37編23~24節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 私たちには、やってみたけれど失敗するということがあります。
私の場合、知り合いから譲ってもらった立派な「そば打ちセット」。たった一度の不味い結果によって、日の目を見ることのない倉庫の奥にしまい込まれました。そば打ちは職人技なので、簡単ではありませんでした。やらなければ良かったと少し後悔しています。でもやってみたので心の痛みにはなっていません。

 私たちには、やってみたいとは思うけれど、やっていないことがあります。
 それをいつ始めるか、あるいは本当に始めたいと思っているのか、そのように逡巡しながら時間だけが過ぎてしまうのです。そして結局「やらない」と選択したわけではないのに、やらないのです。私の場合、海外留学とピアノです。やっておけばよかったと後悔しています。

 やった上での後悔と、やらなかった後悔。
やはり、やらなかった後悔がトゲのように痛みます。
そう考えていくと、チャレンジして得た後悔など、すぐに「良い思い出」になります。
それならやってみなくてはもったいないです。いつだってスタートできます。
「よし、やるか」と思ったら、踏み出してみる。その一歩が、良い思い出へと続いていくのではないでしょうか。

遅すぎる事なんて 本当は 一つもありはしないのだ
    何するにせよ 思った時が きっとふさわしい時
あきらめきれぬ事があるなら あきらめきれぬとあきらめる
    あきらめきれぬ事があるなら それはきっといい事だ

(THE BLUE HEARTS 「泣かないで恋人よ」より)

2022年6月27日
2022.6.20

「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
(ヨハネによる福音書 16章33節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

「世で苦難がある」—不安の中で—

 私たちは、この2年数か月、コロナ禍にあって、不安あるいは恐れを感じるときもあったと思います。不安・恐怖は人間である限り在るものであり、だれにでも忍び込んで来ます。
 ではイエスの弟子たちは、どのように不安に向き合ってきたのでしょうか。イエスが十字架にかけられ死んだ後、復活したという知らせを聞いたとき、彼らは部屋に閉じこもり鍵をかけて潜んでいました。弟子たちには不安と共に恐れがありました。その弟子たちに復活のイエスは、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてきます。
 どうにもならない不安と恐れの中で、共におられる神、神の救いの確かさをしっかり見つめなさい、と語るイエスの言葉に注目したいのです。
 「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書第16章33節)。
 「世で苦難がある」(聖書協会共同訳2018年)。口語訳聖書(1954年)では「この世ではなやみがある」と訳しています。同じ一つの言葉の訳し方によって「悩み」、「苦難」となります。あるいはある英訳聖書では「トラブル」とあります。もとは同じ言葉です。不安は、悩み、禍、苦しみをも包括します。
 イエスは「勇気を出しなさい」と語りかけます。なぜなら「私はすでに世に勝っている」と語るイエスです。ヨハネによる福音書は、十字架上ですべてが「成し遂げられた」と最期に語るイエスを伝えます。私たちはここに「勝利者イエス」を想起します。

2022年6月20日
2022.6.13

「惑わされないように気をつけなさい」
(ルカによる福音書 21章8節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 1970年代後半から、日本でオカルト・ブームが始まりました。その代名詞とも言えるのが、「ノストラダムスの大予言」です。当時、世界は米ソ冷戦や公害が問題視されていました。この様な世界情勢の中、ノストラダムスの大予言の「1999年の7の月に恐怖の大魔王が空からやってくる」によって、メディアによる「空からミサイルが飛んできて大戦争が起こる」、「公害で世界が終わる」という予想が生み出され、世間を巻き込む事態になりました。しかし1999年7月は過ぎ、人々の期待とも言える大予言はあっという間に消え去っていきました。時代の情勢とメディアの情報操作によって、人間は簡単に翻弄されてしまうのです。
 イエスは十字架にかかる前に、当時のユダヤ地方で最も大きかったエルサレム神殿の崩壊とこの世の終わりについて予告されました。その予告を聞いた人々は、それがいつどの様に起こるのかをイエスに尋ねます。するとイエスは、イエスを名乗る偽物が現れることや、戦争、自然災害、そして疫病の流行などが起こるが、それは世の終わりのしるしではないこと、そして人々にも苦難が起こるが、神の救いが必ず与えられるのを待つ様にと語られました。またイエスは、これらのことが起こる時に「惑わされないように気をつけなさい」と語られます。「惑わす」とは、罪への誘惑を意味しています。事実の様に見えて、真実でないことに惑わされてはならないということです。
 SNSやネット、そしてメディアによる情報は大切なものですが、私たちはこれらの情報に惑わされない様に注意する必要もあります。どの様な困難が襲ってきても、私たちには神様の救いという確定した未来が与えられています。この未来は揺るぎません。だからこそ、私たちは真の情報を見極める姿勢を大切にしてまいりましょう。

2022年6月13日
2022.6.6

「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」
(ヨハネによる福音書 17章21節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 この祈りは主イエスが最後の晩餐で唱えられた「大祭司のお祈り」の最後の願いです。これまで、イエスは晩餐に共にいる弟子たちのためにお祈りなさっていましたが、突然、将来の全教会の弟子たちのためにお祈りしはじめます。自分が父と一つであるように、彼らも一つになるように祈ります。
 教会がひとつになることは、この世に愛の印となるはずでした。しかし、聖パウロや聖ヨハネの手紙を読めば、彼らの時代の教会の中でも、ケンカと分裂があったことが分かります。教会が1054年に西派と東派、つまりローマ・カットリック教会と正教会に分かれたことが、その元の分裂の基本に建てられました。そして、16世紀の宗教改革からの様々な分裂は、キリスト教会の中の愛不足を世の中に表してしまいました。
 現在では、正教会の国であるロシアとウクライナの戦争が世に恥ずかしい印です。世界中の聖公会の教会の中にも、党派があります。北アメリカの聖公会は最近二つの別の教会に分かれました。日本聖公会の中でも、19世紀の元の宣教者の信仰によって、色々な神学的な考え方があります。それよりもっと前、周知の通り、16世紀末から、オランダのプロテスタント宣教師が来日して、イエズス会と宣教の競争を始めたからこそ、キリスト教は200年以上、日本で禁止されてしまっていました。教会は確かに一つでしたら、日本への宣教はより多くの実りを残したかも知れません。
 イエス様が亡くなる前の夜、弟子たちが一つになるようにお祈りなさったので、教会はこの願いをもっと真面目に優先したほうが良いでしょう。今後、この世に愛の印となりますように、また世の全ての民が一つになるように、主イエスが命じられた一致を強く求めましょう。

2022年6月6日
2022.5.30

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
(ローマの信徒への手紙 12章15節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「泣く」

 今、巷には、「活」なるものが溢れています。
 就職先を見つけるための活動である「就活」、結婚相手を見つけるための活動としての「婚活」、人生の最後に向けて事前に準備する「終活」。そのような「活」が溢れる中、最近、涙活(るいかつ)なる言葉があることを知りました。なんでも、体に溜まった「悪いモノ」を涙を流すことで外に出す、発散することを云うのだとか。具体的には、泣くために、泣ける音楽や映画を一人で見たり聞いたり、泣ける本を読んだり、誰かから泣ける話を聴くらしい。

 自らのストレス解消のために、劣化した心の修復のために、意識的に泣く、ということに、どこか違和感を抱いてしまうのはわたしだけでしょうか? 涙が流れるのは、意識的に泣きたいと想ったからではなく、自らの心の奥底にある、それこそ「琴線に触れて」、つい溢れてくるモノのように、わたしは理解するのですが・・・・・。 確かに、一晩泣き明かして「スッキリ」することはあるけれど、それは涙がどうにも止まらないから一夜かかってしまったのであり、自らがスッキリするために泣き、スッキリしたから泣くのを止める、ということとは、全く異なる発動によっていると想うのです。

 そもそも、人はなぜ泣くのでしょうか?
 聖書には「泣く人と共に泣きなさい」との有名な言葉が記されています。わたしの、この悲哀を一緒に泣いてくれる人が傍らに居る・・・・・ そのことを知るとき、人ははじめて、心から「ウォンウォン」と泣くことができるのではないでしょうか。泣くという字は「さんずいに立つ」と書きます。泣くのは自らが立つためです。泣きを共にするのは、現前の他者が立っていくためです。涙はそういう相互的な想いの触れ合いの中で、流されるモノなのではないかと、やはり、わたしには想われます。

2022年5月30日
2022.5.23

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
(マタイによる福音書 5章13節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 塩は古来より貴重な調味料として、また食品を守る保存料として用いられてきました。塩は、海水や塩湖から、あるいは海水が長い年月をかけて固まった岩塩から精製されて作られます。日本には岩塩も塩湖もないため、昔から海水のみが塩の原料とされました。海水から塩を精製する場合、天日で蒸発させる方法が主流ですので、雨季があり湿度も高い日本で塩を作ることはとても大変でした。1972年に開発された電気エネルギーや真空蒸発を用いた製塩法によって、安価に大量生産することが可能になったわけですが、それはたった50年前。最近までは大きな手間ひまをかけて塩が作られていました。
 そう、塩は古来より貴重で、大切に作られ、扱われてきたのです。

 わたしたちを生成した神さまは、きっと深い想いを込めて、手間ひまを惜しまず、じっくり大切にわたしたちを造られたことでしょう。機械式の大量生産ではなく、貴重な代物として造られ、そしてそれぞれの味わいによって「よい塩梅」となる、それがわたしたち。
 日々新たにされていく「わたしたち」という逸品を、ぜひご堪能ください。

2022年5月23日
2022.5.16

天の下では、すべてに時機があり
すべての出来事に時がある。
(コヘレトの言葉 3章1節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 5月9日、立教学院創立148周年記念感謝礼拝が行われました。創業の精神を想起する時でもあります。
 現在の立教大学誕生まで、150年近くの時を要しました。立教は、聖書の教えに従って、真理と愛の道を伝えるため来日した米国宣教師、C.M.ウィリアムズによって創立されました。築地居留地の一角に「立教学校」が誕生したのは148年前です。当初生徒は5名とも8名とも言われ、聖書と英語を教える小さな私塾でした。しかし生徒は徐々に増えていきます。この小さな学校が「立教学校」と呼ばれました。これが立教の源流です。

 ここで100年前にタイムスリップします。時は1922年5月25日、待望の大学認可となります。
 「財団法人聖公会教学財団に於いて大学令に依り立教大学を設立するの件 大正十一年五月二十五日認可せり 文部大臣 中橋徳五郎」(公示)。
 これまでは専門学校令による立教大学でありましたが、ここに帝国大学のみ与えられた「学士」の称号を私立大学も取得できるようになりました。私立大学では立教は9番目となります。学生間でも昇格運動が熱心に行われました。従って学生、教職員にとって喜ばしい時となりました。もちろんこの認可申請には、大変な尽力が必要でした。1919年、池袋にレンガ校舎群は落成していましたが、さらなる難題を克服しての認可となりました。設置申請の段階では文学と商学の2学部、予科からなるもので、この時期のリーダーはライフスナイダー総理と元田作之進学長でした。
 「翌6月10日午前十時、大学西端に巍然として建てる体育館(1998年閉館、解体)を式場として昇格の祝賀会を催した」との報告があります。雨天となりましたが、「式場には殆んど一杯に来賓あふれ、二階の学生席も満ちていた」、「新文部大臣の鎌田榮吉氏の演説が行はれた。次で前文相、米大使、帝大総長等・・・の祝辞」、再度来臨された「澁澤(栄一)子爵の訓辞」もありました。短期間での式典の準備もさることながら、ここに立教全体の喜びが表現されています。
 ここから100年、立教の学び舎は大きく変わりました。しかしキリスト教の精神に基づく変わらぬ理念は継承されています。まことにすべてに時があり、すべての出来事に時があります。2千数百年前の「コヘレトの言葉」は語ります。
 「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。」

2022年5月16日
2022.5.9

イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。
(マルコによる福音書 4章33節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 ストーリーテリングという言葉があります。この言葉は、語り手が相手に伝えたいことを印象的なエピソードなどの物語を用いて伝えることです。事実や数字を並べるよりも、人間味のある物語の方が何倍も人を引き付ける力があります。近年、企業ではその活動の中でストーリーテリングを取り入れるようになってきたとも言われています。しかしストーリーテリングは単に物事を「たとえ話」にするだけではありません。語られるストーリーには、しっかりとした理想や展望、そして未来が描かれていることが大切なのです。
 教会はイエス・キリストの生涯をはじめ、様々な聖書の物語を通して発展していきました。しかし教会が物語ったのは「物語」だけではありません。イエスとその弟子たち、そして弟子たちから物語を聞いた最初のキリスト者たちの「人生」が、人々に人生の素晴らしさや喜びなどの影響を与えたのです。その歴史は2000年前から現在まで続いています。
 人間一人一人には、それぞれの人生という物語があります。それぞれの人生は、少なからず人々に影響を与えています。皆さんも誰かの物語を見聞きして、今をお過ごしのことと思います。しかし物語は人から聞くだけではありません。誰もが誰かに何かを物語っているのです。その一番身近な存在が家族や親しい方々であることは言うまでもありません。皆さんの人生は必ず誰かに影響を与えています。この大学での生活を通した生き方が、皆さんの人生という物語を築いていることを覚えて、日々を歩んでまいりましょう。

2022年5月9日
2022.4.25

朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行った。
(ヨハネによる福音書 20章1~2節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 現在でも、愛している人の死体を探している女性の方がいるでしょう。ウクライナや中東のさまざまの国やミャンマーでも、瓦礫の中を掘って、生きているか死んでいるかもわからずに、夫や子どもたちや両親を探している女の人が確かにいます。その女性たちの中で、男の手伝いを頼みに走る人がいるかもしれませんけれども、その男の人は戦争やお金のことで忙しくて手伝えないことがあるかもしれません。死体のことを心配する為の時間は無いでしょう。
 古代の世界では、戦争や争いは普通であって、平和は珍しかったのです。発展しているという国々の国民の私達には忘れやすいことですが、現在の世界の大部分の人は、今でもそうです。そういう人々は、私たちより、死の虚しさに近いと思います。私たちは、代わりに、命の中で虚しさを見つけます。命の虚しさをうめるため、携帯ゲームやネットフリックスなどを使いますが、結局、それらのものも虚しいと悟るようになります。私たちが虚しさの縁に存在していることを分かるようになって、怖がってきます。
 しかし、2000年頃前、ローマ帝国の些細で田舎っぽい角で、ゲリラ抵抗の争い中、処刑された犯人のお墓から、主がよみがえられて、平和を宣言しました。その主は、死の虚しさから永遠の命を出すほど、この世を愛している神のことを明らかにしました。誰に初めて現れたかと言えば、マグダラからのマリアという女の人でした。
 もちろん、主がよみがえられたことを否定した人々がいました。亡くなった犯人が亡くなったままに残ったら良かったと思って、戦争と抵抗という男の大事な仕事をし続けました。
 しかし、よみがえられた主を見た人々の中では、聖ペトロを含めて、彼の復活を否定することより、殺されることを選んだ人々が多かったです。現在の世界でも、キリストの復活を信じることを選んだわけで殺されている人がいます。復活日の後、空の墓を顧みて、私たちも選択しなければなりません。虚しさと充実との選択です。ですので、私たちは誰を信頼したらいいでしょうか?

2022年4月25日
2022.4.18

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
(ルカによる福音書 24章5~6節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「ハナミズキ」

 立教大学のマキム門から南門までの西池袋通り沿いで、今、ハナミズキの花たちが綺麗に咲いています。このハナミズキは、立教学院が創立140周年を迎えた年に、米日友好の徴として植えられたものです。

 もともと、ハナミズキはアメリカを代表する花木ですが、そのハナミズキには、以下のような伝説が残されています。

 昔、ハナミズキは、今よりも背が高く、太くて、真っ直ぐな幹をしていたため、イエス・キリストが磔刑に処せられたとき、その十字架の材料に使われてしまいました。ハナミズキは、そのことをとても深く哀しみました。すると、復活したイエス・キリストが、ハナミズキを慰め、もう二度と、ハナミズキから十字架が作られないようにと、ハナミズキを大きくせず、細くて、曲がりくねった幹の姿に変えました。以来、ハナミズキから十字架がつくられることはなくなりました。

 すべては後代の創作話ですが、実際、ハナミズキの花は、十字架のカタチをしており、その花弁は縁が赤色、先端は茶褐色をしています。これは、イエスを十字架に打ち付けた釘の錆とイエスの血痕を、また花の中心は、イエスが被らされた荊の冠を象徴しているとも伝えられています。

 キリストを信じる世界中の教会は、去る4月17日に、十字架の上に死に、3日目に復活したキリストの復活を祝いました。教会が、このキリストの復活のできごとの中に見出した真実とは、人は、何度でも、どこからでも、いつからでも、歩み出せる、立ち上がることができるという「希望」と「力」です。「もう駄目だ」と想うような「諦め」から、「わたしがここに居ることの意味が判らない」とされるような「嘆き」から、「自分には何一つの価値も見つからない」と感じられるような「絶望」から、でも、その中に光が在ること、はじまりが在ること、それがキリスト教会が高らかに宣言する、信じるに価する、復活の確かな真実です。

2022年4月18日
2022.4.11

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。
主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
(ペトロの手紙Ⅱ 3章8節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 玄関先に咲く花が、春の訪れを語り始めました。
 でも、まだ暖かな声を聴かせてくれない蕾がいくつか残っていたのです。同じ土に植えられた他の蕾は大きく開いてきているのに。まだ咲かないのかな、この蕾は成長が遅いのかなとソワソワする気持ちがあるけれど、心にあったのは苛立ちでも諦めでもなく、蕾と一緒に少しずつ膨らんでいく希望でした。きっと咲く時がくる喜びがあるからでしょう。

 新年度のキャンパスが、春の訪れを告げ始めました。そこには楽しそうに咲いている人たち、今まさに咲き始めようとしている人たち、まだ蕾の雰囲気を残しているような人たちもいて、春らしい風景になっています。
 いつ咲いたのか、いつ咲き始めたのか、蕾がいつ花になるのか、その日その時を私たちは知りません。もしかしたら、春ではない季節に咲く花なのかもしれません。だけれども、私たちはこれまでもそうであったように、これからも少しずつ芽を伸ばし、蕾をつけて、その時々に自分の花を咲かせていくのです。咲く時は、きっとくるのです。

 咲く時までの「希望の路」。長いようで短く、短いようで長いその道へと歩み出す。私たちは出発の春を、迎えたのです。

2022年4月11日

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