立教大学 公開講演会 「今日から私にできること-東京パラリンピックに向けて-」 日時 2016年11月26日(土)13:30~15:30 会場 池袋キャンパス 5号館 5122教室 講師 河合 純一氏(一般社団法人 日本パラリンピアンズ協会 会長) 主催 しょうがい学生支援室 共催 コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科 後援 一般社団法人日本パラリンピアンズ協会 サポート体制 手話通訳、学生スタッフによるパソコンテイク、移動サポート等 ※この講演会は、司会・受付・誘導・点訳など学生スタッフを中心に運営しました。 木下/ 皆さん、こんにちは。本日はお忙しい中お越しくださいまして、ありがとうございます。ただいまより、2016年度立教大学しょうがい学生支援室講演会を開会いたします。本日の司会を務めさせていただきます立教大学経済学部会計ファイナンス学科1年の木下聡美と申します。よろしくお願いします。 大石/ 同じく、コミュニティ福祉学部福祉学科1年の大石鮎美です。よろしくお願いします。 大橋/ 大石さんの手話通訳を務めさせていただきます、コミュニティ福祉学部福祉学科1年の大橋理美です。よろしくお願いします。 ●写真 司会の3名が並んでいる(右端の学生は車いす利用)。大橋さんがマイクを持ち、話している。 木下/ 講演に先立ちまして、皆様にご理解いただきたい点が2点ございます。  1点目ですが、この講演会では、車いすを使用している方、視覚しょうがい、聴覚しょうがいのある方のために移動サポート、手話通訳、パソコンテイク、点字のパンフレットなどをご用意しております。その他、受付、案内など、私たち立教大学の学生が準備を行っております。至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。また、講演会中に何かございましたら、お近くのスタッフまでお声がけください。  2点目ですが、本日の講演会の様子を記録として写真撮影、ビデオ撮影させていただきます。写真に関しましては、本学ホームページ、しょうがい学生支援室のFacebookなどに記録として掲載する予定です。もし不都合のある方がいらっしゃいましたら、スタッフまでお申し出ください。なお、ご来場の皆様による撮影、録音はご遠慮いただいております。  続きまして、本日の流れについて簡単にご説明します。前半が河合純一さんによる講演、後半が学生を交えての質疑応答の二部構成となっております。詳細につきましてはお手元のプログラムをご覧ください。  それでは、講演に移りたいと思います。はじめに、立教大学新座キャンパス事務部長の阿久津さんからご挨拶いただきたいと思います。阿久津さん、よろしくお願いいたします。 ■開会の挨拶 阿久津/ 新座キャンパス事務部の阿久津と申します。本日は土曜日の午後にもかかわらず、このような多数の皆さんにお集まりいただけましたことを、まずは感謝申し上げます。開会にあたりまして、一言ご挨拶させていただきます。  同講演を主催するしょうがい学生支援室でございますが、2011年の開設以来、毎年、公開講演会を開催しており、今回が6回目になります。今年の講演会は、「今日から私にできること‐東京パラリンピックに向けて‐」と題しまして、本学コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科の共催、一般社団法人日本パラリンピアンズ協会の後援をいただいて開催いたします。  本日、講演いただく河合純一氏は、水泳競技選手として輝かしい成果を残されるとともに、日本パラリンピアンズ協会で2003年の発足時より中心的に活躍され、現在、協会の会長を務めていらっしゃいます。講演に続きまして、パラリンピック競技で活躍する学生を交えてパネルディスカッションを行います。  立教大学は昨年、創立150周年を迎える2024年を見据えて、「RIKKYO VISION 2024」を策定いたしました。そのビジョンのアクションプランの1つが、東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトの推進です。すでに本学は日本身体障がい者水泳連盟と覚書を締結して、両キャンパスのプールを選手の練習場所としてご利用いただいています。また、今年の春学期に全学共通科目として「2020年東京パラリンピック支援を考える」を開講し、リオデジャネイロパラリンピックでは、ゴールボールに社会学部3年次生の若杉遥さんが代表選手として活躍し、私たちはパラリンピックがより身近に感じられるようになりました。本日の講演で、私たちがしょうがいやしょうがい者スポーツへの理解を深め、4年後の東京パラリンピックに向けて一人一人に何ができるのかを考えるきっかけになることを期待いたします。  最後になりますが、本日の講演会では、学生スタッフが手話通訳、パソコンテイクに加え、司会、受付、誘導、移動サポートなどの運営全般を担っていることをご紹介させていただきます。この講演会が、運営するスタッフを含め、ここに集う皆さんにとって実り深いものになりますことを祈念いたしまして、開会の挨拶にかえさせていただきます。 ●写真 マイクを持ち開会の挨拶をする阿久津氏。 木下/ 阿久津さんありがとうございました。  続きまして、河合純一さんにお話しいただきます。河合さんは1992年パラリンピックバルセロナ大会以降6大会連続で出場し、金メダルを含む21個のメダルを獲得された水泳競技の実力者です。そして、現在は日本パラリンピアンズ協会会長を務めていらっしゃいます。本日は、ご自身の競技人生としょうがい者スポーツ振興の活動を通じたパラリンピック競技種目を取り巻く社会や、それに対するご自身の思いについての講演をしてくださると伺っております。それでは河合さん、よろしくお願いいたします。 ■講演 河合純一氏 河合/ 皆さん、こんにちは。河合純一といいます。今日は、立教大学しょうがい学生支援室にかかわっている方々含めて、パラリンピックについて少し知っていただきながら、また、しょうがいについて考えるきっかけとなっていただければと思います。1時間いただきましたので、最初にパラリンピックがどういうものなのかを知っていただくことと、その後、僕はもう41歳になりますけれども、半生を少しお話させていただいて、最後に東京2020パラリンピックに向けての話をさせていただきます。後ほど質疑応答で若い学生たちと一緒に受けさせていただきながら、和気あいあいと後半はできればなとも思っておりますので、お付き合いをいただきたいと思います。  まず、しょうがいのある方々に何をしたらいいのか、何ができるのかということを考えるっていうのが大きなテーマかと思うんですね。今日皆さんがここにいるっていうことは、そういう意味で言ったら、もう満点なんですよね。もう既に皆さんはそのアクションを起こしたのです。ここに来るというアクションを起こしたっていうことがとても大きくて、逆にここに来ていない人に比べると何十歩もリードしていると思っています。  ですが、来た人たちだけが理解をしていくのでは限界があります。これをどのようにこれから変えていくのかが、今日皆さんに考えていただいて、持ち帰っていただくものなのかなと思っております。 ●写真 ピンマイクを付けて話す河合氏のアップ。 河合/ では、話を続けていこうと思います。今から1時間くらいお話をしますけれども、どうやって私は時間を管理するでしょうか。私は目が見えないんですよね。14時40分までしゃべるんですけれども、見えない人がどうやって時間を管理するのか。パソコンが読み上げてくれる機能もあるんですが、もう1つは携帯電話。相変わらず古いガラケーを使っていますが、読み上げてくれる機能があるわけです。ちょっと早口なので聞こえるかわかりませんが。  「11月26日土曜日13時42分です」  聞こえましたか?11月26日土曜日13時40何分と言いました。もう1回聞きましょう。  「11月26日土曜日13時42分です」  13時42分ですと言っていましたよね。聞き取れましたか。聞き取れなかったですか。  これぐらいのスピードで大体聞き取れるようになります。別に耳がよくなるわけでないんですよ。目が見えなくなると耳がよくなりますかってよく言われるんですが、では、聴覚しょうがいの方がみんな視力2.0になるかっていったら、ならないですよね。多分、使い方の問題なんですよね。だから、そういうことも含めて、今日は知っていただければと思っておりますので、この時計をうまく活用しながら話をしていきたいと思っています。 ●写真 笑顔で携帯電話の読み上げ機能について説明をする河合氏。後方に立つのは手話通訳者。 ■パラリンピックマークの意味 河合/ パラリンピックについて話をしていこうと思うんですけれども、そもそもパラリンピックって皆さん知っていますか。パラリンピックのマークを見たことありますか。オリンピックは五輪のマークですが、これがパラリンピックマークです。ぜひ覚えてください。これからよく目にすると思います。これは「アギトス」という、ラテン語なんですけれども、英語で言うと、“I move”という意味です。「私は動く」っていう、その躍動感を表していると言われておりまして、3つのカラーは、世界で最も使われている国旗の色の種類、3色を選び、ボディ、マインド、スピリットの統合を表しているのが、パラリンピックのマーク、シンボルになっているわけです。ですので、こういうマークのことも皆さんにぜひ知ってもらって、オリンピックだけじゃないよっていうことも、ぜひわかっていただきたいです。 ■パラリンピックの起源 河合/ 2020年には東京で2回目のパラリンピックを開催することになります。1964年には第2回パラリンピックが東京で開かれました。元々パラリンピックは、しょうがいのある方々のリハビリとしてスタートしました。戦争で傷ついた兵士の方々が第二次世界大戦後に増加するのを見越した、当時のイギリス首相チャーチルが、リハビリ専門の病院を、ロンドンの郊外にあるストーク・マンデビル病院に開設をしたというのが始まりです。ここにいたお医者さんルートヴィヒ・グットマンという方が、スポーツを取り入れることによって、しょうがいのある、とりわけ当時は脊髄損傷で対麻痺の方々のリハビリとして、スポーツを取り入れることをやったわけです。  なぜかというと、当時脊髄損傷で車いす生活になると、人生が半年で終わってしまったのです。本当ですよ。約70年前のことです。しかし、スポーツをすることによって、もちろん新陳代謝がよくなるとかもあるんですが、最も大きかったのは、活動的になって前向きになって明るくなっていく。やっぱり精神的に、自分は足が動かない、もうだめなんだと思ってベッドでずっと横になると病気がちになっていったのですが、これをくい止めたのです。大きな成果として、現在は車いす生活になっても70、80歳まで生きる方々も、100歳もいるかもしれませんが、そういう時代になってきました。もちろん医学の進歩も含めて、ということになります。 ■日本発祥の言葉「パラリンピック」 河合/ 1964年、日本で初めて行われたパラリンピックですけれども、パラプレジアという対麻痺の方々を表す英単語ですね。この言葉とオリンピックをくっつけて、当時、パラリンピックという言葉を日本で開発しました。日本発祥の言葉です。それが大きなポイントになっておりまして、その後、1985年になってから、IOC(国際オリンピック委員会)との間で取り交わしがなされて、パラレルという意味合いとなりパラリンピックになりました。1976年にモントリオールオリンピックが行われたときに、カナダのトロントでパラリンピックが行われておりまして、このパラリンピックからは、車いす選手以外の視覚しょうがい者や、義足の方々、脳性まひの方々なども参加できる大会となって、パラプレジアのオリンピックから、いろいろなしょうがいのある方々のオリンピックに変わっていったことによって、「もう1つの」オリンピックとなっております。正式には1988年のソウル大会から、同一都市、同一会場で同一年に行われるもう1つのオリンピックとして、パラリンピックが位置づけられたということになっています。 ●写真 情報保障(パソコンテイク)でノートパソコンのキーボードを打っている2名の学生。真剣な表情。 ■パラリンピックの歴史 河合/ 先ほど言ったストーク・マンデビル病院内で、1948年にアーチェリー大会が行われ、そこにパラリンピックの起源があったということになります。なぜアーチェリーだったかわかりますか。やりやすかったのもあると思いますが、要するに矢を当てようとするわけですよね。当てようとすると何が一番大切かわかりますか。僕もアーチェリーをやったことがないので、適当なことを言っていたらごめんなさいということになりますが、大切なことは、姿勢がぶれないことですね。弓を絞っていく間に、上半身が揺れたら的に当たる先だってずれますよね。当然、下半身が麻痺していますから揺れやすいし、車いすに座っています。そうなったときにどうするか。姿勢を維持しようと思って意識しますね。体の背骨などを意識することによって得点を競うスポーツなので、ある意味、遊びが発展していく中で、日常生活で車いすからトイレに移動する、ベッドから車いすに移るという動作が楽にできるようになっていたわけです。つまり、遊びというか、スポーツをすることによって日常生活が向上する効果があった。だから、ただ筋トレをするとか、単なるベッドから車いすに乗り移るような練習をし続けるよりも、前向きに楽しんでやった方が効果が大きいことに、グットマンさんが気づいたということになっています。  これが発展していき、1952年になってからはオランダが参加して国際大会となり、それ以降、毎年開催していました。1960年、オリンピックの開催地であったローマで初めて国際ストーク・マンデビル大会を開催し、後になってからこのローマ大会を第1回のパラリンピックとし、第2回のパラリンピックが東京で行われたということになっています。その後、1968年、72年、76年、80年、84年まではオリンピックとパラリンピックの開催地が違う時代が続きます。財政上など様々な理由があるのですが、同じ国でやったり、違う国でやったときもあります。先ほど1952年からオランダが参加したと言ったんですけれども、実は昨日まで私、オランダへ出張に行っていました。オランダでは、1928年にアムステルダムオリンピックが行われています。それ以後、オリンピックは開催していないんですが、パラリンピックは1980年、当時のソビエト連邦であるロシアのモスクワでオリンピックが行われたとき、ソ連はパラリンピックを開催しなかったので、オランダのアーネムというところで開催しています。そのアーネムに昨日まで行っていました。そこはオリンピック選手もパラリンピック選手も使えるナショナルトレーニングセンターとして、今レガシーとなっていると。こういう場所もあったりします。  グットマンさんの言った有名な言葉に「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉があります。まさにオリンピック、パラリンピックの大きな違いの1つが、しょうがいのある方々しか出場することができない大会がパラリンピックであるということなんですよね。逆に、オリンピックにはしょうがいのある方が出てもいいんです。今回のリオでも2~3名いるんですよね。卓球、アーチェリーなど、いろいろな競技で選手が出ています。  要するに、自分の動かない足に目を向けるのではなく、「車いすに乗ればこんなこともできるんだ」というように、残された能力を最大化することにこそ、スポーツの魅力、パラリンピックの魅力があるのではないかということに気づいていただきたいのです。まさにパラリンピックの原点、モットーと言ってもいいのではないでしょうか。マイナスではなくプラスを見ていこうということだと思っています。  では、パラリンピックは今、規模でいうとどれぐらいの大きさかというと、世界で3番目のスポーツイベントに成長しました。これはロンドン以後の話です。今回のリオも多くの方々に見ていただいたりチケットを買っていただいたということで、大変多くの方々に注目をいただいていたことになります。それぐらい大きくなって、オリンピック、サッカーのワールドカップ、そしてパラリンピックという規模になっています。ロンドンが280万枚、今回リオで210~220万枚売れたといわれています。では4年後、東京で何枚売ったらいいか。僕は300万枚かなと思っています。世界一を目指して皆さんと一緒にやっていきたいと思っています。それぐらい注目を浴びて報道されるようになったということです。 ●写真 講演中の河合氏の話に耳を傾ける来場者の方々。 ■期待高まる東京パラリンピック 河合/ 2020年は、先ほどから申し上げているように、世界で初めて2度目のパラリンピックを開く都市が東京だということです。オリンピックの複数回の開催は、アテネ、ロサンゼルス、ロンドン、パリのように、複数の都市で行われていますが、パラリンピックを複数回開催し、かつオリンピックと同時開催する都市は世界初、これが日本の一番の売りです。この成熟した都市・東京で2度目のパラリンピックを開くという意義が世界に与える影響は果てしないことなんです。世界中が2度目のパラリンピックをどうやって開くのか注目しています。私がオランダに行った時も、オランダの人たちから「すごくいい大会にしてね」という期待をすごく受けました。  実はオランダで今回、金メダルを取った陸上のマールー・ファン・ライン選手と会ったのですが、「閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーのプレゼンで、“ポジティブスイッチ”というテーマで行ったのを見て、非常に感動して、私も行くのが楽しみになったわ」と言っていました。それぐらいの期待感が世界ではあるよ、ということになります。なので、ぜひ皆さんにも関わっていただきたいです。そしてボランティアの話を後ほど時間があればしようと思いますが、そういう時代がもう本当に近づいてきていることを知っておいていただきたいと思っています。ここまでが、パラリンピックの簡単な説明になります。 ●写真 スクリーンの前に立ち、話している河合氏。後方には手話通訳者。スクリーンには、1度目の東京パラリンピックに関するポスターと車いすで入場行進している開会式の様子の写真が映し出されている。 ■生い立ち 河合/ 次に、河合純一はどんな人か話をしていきたいと思います。僕の小さいころの夢は教師になることでした。それと水泳が好きで、5歳からずっと続けています。  1975年に静岡で生まれて、目の病気で、右目が0.1の視力で左が見えない状態で生活していました。水泳は視力をそんなに必要としないと思っていたのでやっていましたし、他にも空手やソフトボールなど、苦手ながらもいろいろな競技に取り組んでいたのはよかったなと思っています。私が見えていたのは15歳までですので、最後に見たのはソウルオリンピックで、今のスポーツ庁長官の鈴木大地さんがバサロスタートで優勝したシーンは僕が見えていた記憶がある最後のオリンピックになります。 ■恵まれた水泳環境、そして練習の日々 河合/ その2年後にほぼ失明して、高校は護国寺駅のすぐ近くにある筑波大学附属盲学校、現在の視覚特別支援学校に入学しました。92年のバルセロナパラリンピックに高校2年生で初めて出場するということになったわけです。ですので、実はバルセロナに出るまで世界を目指そうと思っていたというよりは、水泳が好きで、将来、学校の先生になりたいなっていう小学生、中学生だったっていうだけなんです。もちろん、小学校、中学校で全国大会とか県大会というレベルの選手でしたけれども、かといって全国優勝するとか、県大会でも県の記録を持ってとか、そんなすごい選手ではなく、毎日練習をすると。ただ、今振り返って恵まれていたと思うのは、僕の出身小学校は、舞阪町というのですけれども、当時は町ですよ。今は浜松市になりましたが、町立の小学校で25mの室内温水プールがあったのです。今から40年以上前に。それが使えたということと、中学校も、町内に1校しかないのですが、50mの屋外プールがあって、年中、室内でも泳げるし、夏は50mプールで練習できました。小学校1年生から中学3年生までの僕の水泳環境は、とても恵まれていたということです。昔は、スポーツ科学がちゃんとしていない時代ですので、例えば、「水を飲みながらスポーツをやってはいけない」と。大嘘ですよね。今は、ちゃんと水分補給をしながらやりましょうと言っています。練習を1日休むと取り戻すのに3日かかるといって脅されていたので、当時は休みがない。365日あったら360日ぐらい練習しているっていう中学時代でした。先ほど言ったように温水プールがあるので、1日、中学生でも7,000mから8,000m、ほぼ毎日、冬でも泳がされていました。決して楽ではなかったですけれども、仲間と一緒に楽しくやれたのはベースにあるだろうなとは思っています。 ■泳ぐうえで見えなくなって困ったこと 河合/ その中で失明をしてしまったわけですね。15歳で。目が見えなくなると水泳で困ることって2つあるんですよ。1つ目はまっすぐ泳げないこと。見えないので曲がってしまいます。2つ目は壁にぶつかること。この2つの難しさを練習とともに解決していきました。高校進学で浜松から東京に出てきたのは、将来教師になるために大学進学を考えて、大学に行くための勉強をしなきゃいけないと思っていたことが一番の決め手です。水泳もできれば続けたいと思っていたんですけれども、幸い僕が行った高校にはプールがあって、最初はよかったと思ったんですよ。そうしたら、外の12mプールなんですよ。小学校は25mで、中学校は50m。高校に行ったら12m。これは何なんだと。ターンして返ってきても25mにならないという、何とも中途半端なプールでした。後でわかったことは、防火水槽と兼ねているからこのぐらいの大きさでいいんだということでしたが、そういう問題じゃないだろう、って感じですよね。埼京線の十条駅近くのしょうがい者のスポーツセンターも借りたりしながら、練習をすることになりました。そして、92年のバルセロナ大会に初めて出場します。 ■世界の違いを知ったバルセロナ大会 河合/ このバルセロナの大会で一番驚いたのは、メディアや観客が多かったんですよ。今から25年ぐらい前です。当時パラリンピックどころか、例えば日本で試合をすると、観客がほとんどいないんですよ。選手と家族がいればいい方です。アップするプールもない状態だったので、もう驚きました。  パラリンピックでメダルを取ったりとか、出場が決まったりすると、今だったら取材や出演依頼がたくさんあるんですが、当時は全くないわけです。パラリンピックでメダルを取っても、新聞に1行か2行で「河合純一、静岡県浜松市舞阪町出身、パラリンピックバルセロナ大会で、何m自由形、銀メダル獲得、以上」みたいなね。そんな時代ですよ。写真なんて載らない。それが、実際にバルセロナに行ってみたら、違うわけです。ラテン系のノリもあったかもしれませんけれども、パラリンピックでは会場がいっぱい。当時バルセロナ五輪といえば、岩崎恭子さんが14歳で金メダルを取りました。同じプールで僕が1カ月後に泳いでいるんだということ。僕と恭子ちゃんは同じ静岡県民なので、親近感があったわけです。観客もいっぱいだし、開会式もたくさんの人が見に来てくれて、なんてすごい大会だっていうのが第一印象。現地ではテレビでも流れているし、新聞にも様子が記事になっている。スペイン語は読めないですし、そもそも文字は読めないですが、話を聞いてやっぱりこういう姿がいいなと思ったわけです。こういう社会、日本にしたいなっていうのが、僕が今いろいろな活動をすることになった原点なんですよ。あの時の新鮮な驚きや喜びを多くの人に感じてもらいたいなと思っているということです。これが本当に大きいです。  当時は厚生省、今の厚生労働省がずっとパラリンピックをやっていて、オリンピックは文部省、今の文部科学省がやっている時代がずっと続いていました。早く変えてくれと言い続けて、やっと2年前に変わったという状況です。20年以上かかったのです。でも、そういうことに気づけたのは大きかったと思っています。このときには、銀メダル2個と銅メダル3個の結果で、メダルの数としては、日本選手団で1大会1人で5個という、バルセルロナ大会で最多メダルの結果でした。それに当時最年少で僕は出場していて。えっ、と思うかもしれませんが、僕にも最年少のころがあったんです、こう見えてもね。でもやっぱり金メダルが取れなかったのは、悔しいなっていう気持ちになりました。悔しいというか、終わってみてやっぱり悔しかったっていうことです。25年前ですから、インターネットも携帯もないんですよ。その時代に、今、世界ランキング何位ですかって、誰もわからないんですよ。そういう時代ですから、どれぐらいのタイムで泳いだら自分が優勝できるかとか、メダルが取れるかなんて全くわからないわけです。ライバルの情報もよくわからない。どうするかと言ったら、もう出るレース出るレース、全力で泳ぎ続ける以外ないんです。これが当時の状況でした。でも、やっぱりそうやってライバルと競い合ってみて、こういう強い人もいるんだな、勝てないんだなっていうことがわかったりして、楽しさを覚えたのも事実で、次こそパラリンピックでの忘れ物を取りに行こうというのが、4年後に向けてのモチベーションになったということです。 ●写真 スクリーンの前に立ち、話している河合氏。来場者から見て左前方にパソコンテイクの文字を表示するスクリーンがあり、河合氏後方に手話通訳者が立って通訳をしている。来場者から見て右前方のスクリーンには17歳で出場したバルセロナ大会での写真が映し出されている。 ■早稲田大学へ進学 河合/ 高校卒業後、早稲田大学に進学しました。教師になりたかったので教育学が勉強できることと、高校が護国寺だったので、できるだけ近い方が生活も慣れていたのでいいだろうと思って、考えました。もうひとつは、キャンパスが1、2年と3、4年で分かれている大学が当時多く、視覚しょうがいの特徴として新しい場所を覚えるのは苦手なんですよ。なので、1年から4年まで同じキャンパスで過ごせる大学を探しました。その中で早稲田の高田馬場近くのキャンパスは4年間そのままでいいとわかり、推薦で受けて、なんとか合格して入学しました。  大学に入ってから実は最初、水泳部で練習したというよりは、サークル(同好会)で練習していました。水泳部に行こうと思ったら、所沢に練習場があって大変だとか、練習も厳しくて、当時、僕が入る前の早稲田は非常に強くて、インターカレッジで優勝しているような強い大学だったんですよね。遠いのもあって難しいんじゃないかと言われて、本部のキャンパスで練習していました。 ■金メダル獲得から変化した練習環境 河合/ その中で、大学1年生の時、1994年に第1回IPC世界選手権がマルタ共和国でありました。この世界選手権に行って金メダルを取って帰ってきたんですよね。初めて世界大会で金を取りました。ただ、アメリカのライバルが出ていなかったので、嬉しいような嬉しくないようなっていうのが本音なんですが。でも、世界一だということで帰国して、大学の先生に報告したわけですよ。その中の一人の先生が、早稲田の水泳部部長の先生だったんですね。教育学部の部長でもあった先生がいて、「授業を休んですみませんでした」と言ったら「結果どうだったんだ」と言われたので、「優勝することができて金メダルを3つ取りました」と言ったら、その先生があ然とするわけですね。「君は世界一ってことか」って聞かれたわけです。僕が「はい」と答えると、「なんで世界一なのに新聞とかにも報道がないんだ」と僕に聞くわけですよ。僕もそんなのわからないですよ。報道しないのは新聞社の問題じゃないですか。だから、「あまり魅力ないからですかね」っていう話をしていたんですね。そうしたら、その先生が大学に言って、大学から新聞社に言って、それが記事になるということがあって、早稲田の学生が世界大会に行って金メダルを取ったという記事が載ったわけです。  これがひとつ大きなポイントで、その先生ともより親しくなることで、水泳部の練習に参加するようになり、ひいては入部するきっかけにつながっていったわけです。  先ほど言った記事を海外で読んでいた人がいました。それが大学の先輩だったんです。水泳部の方で当時オーストラリアに水泳留学をしていた藤本隆宏さん。俳優なんですよ。『真田丸』に出ていた方で、『花子とアン』にも出ていました。ソウルとバルセロナのオリンピック個人メドレーの代表で、早稲田を卒業した後、オーストラリアに留学していたときに、僕の記事を読んでいたんです。その半年後ぐらいに帰国して、所沢のプールで泳いでいる僕を見かけて声をかけてくれたというのが出会いです。オリンピックの選手からするとほとんど知られていないし、一緒に練習するようになっても、正直言って女子の選手についていくのが精いっぱいでした。でも、やっぱり練習しなくて速くなった人を見たことがなかったし、練習することが重要だと思っていたので、本当に必死になってついていきながら、当時練習させてもらっていたのを覚えています。オーストラリとかの合宿にも連れて行ってもらいながら、期待に応えようと思って一生懸命練習して、本当にいい経験をさせてもらいました。オリンピックの代表選手が4、5人いるチームで常に練習できるのは刺激的でしたし、変な話、オリンピック代表になる人たちでさえ、気持ち悪くて吐きそうになるくらい練習しているわけです。それぐらい一生懸命ね。そういうのを真横で見ていると、僕なんかもっと頑張らなきゃと当時は思いました。でも、そうやって練習して疲れてくると、まっすぐ泳げなくなって手を怪我したり、壁に時々ぶつかったりするわけですよ。そこで痛がりながらも頑張って泳いでいる姿を見ていたオリンピック選手たちは、また自分たちも頑張らなきゃなと思っていた、と後で教えてくれました。まさに、そういうのが共生なのかなとも思うわけです。 ●写真 講演をじっくり聴いている来場者の方々。 ■金メダルをとって気づいたこと 河合/ こういう経験を通じて、アトランタをうまく迎えることができ、大学3年のときに優勝することができました。金メダル2個と銀と銅を取ることができてとても嬉しかったなと思うと同時に、金メダルを取ってみないとわからないこと、気づかないことってあるんだなと思ったことがあります。当時は、優勝して最高に幸せになれるのは、優勝した自分だけだと思っていました。けれども、金メダルを取って気づいたことは、自分以上に喜んでくれる人がいることです。世界一の選手を指導したコーチは世界一のコーチなんですよね。だから、世界一のコーチは世界一になった喜びを知っているコーチなんですよ。世界一の選手をサポートした家族や友人は、世界一の家族や友人だから世界一にさせてあげられたと思うと、世界一嬉しい気持ちをその人たちも味わえる。つまり、自分一人でスポーツをしていないっていうことに気づいて、感謝の気持ちが心の底から湧いてきたのは、表彰台の一番高いところに上った瞬間だったということです。  こういう経験を通じて、「スポーツは人と人をつなぐんだ」ということに気づいて、自分としては、もっともっとこれを続けていきたいという気持ちがめばえ、教師になって静岡で仕事をするようになった後も水泳を続ける大きな力となりました。  当時、教師になりましたが、実は日本で目が見えなくて普通学校で教師をするというのは、ほとんど例がありませんでした。現在、20~30人いるんですけれども、今でも「目が見えない先生なので、大学の教師をやめてください」みたいなことを言う大学があるんですよ。今でもあるわけですから、当時はもっと大変な時代でした。  なぜ教師になったかというと、裏話みたいですが、希望や夢は人に語っておいたほうがいいとつくづく思ったのです。誰かが聞いていてくれて、それを叶えてくれるかもしれないということです。アトランタで金メダルを取って、表敬訪問でいろいろなところに行くわけですね。当時スポンサー企業も我々にはそんなになかったので、行くところは大体県庁ぐらいです。地元に戻ったとき、当時の副知事の方に、「河合さんは大学3年生だけど、パラリンピックで金メダル取った後の次の夢は何なの」って聞かれました。僕は、静岡県の学校の先生になりたいですと言ったんです。「あなたみたいな人が頑張ってくれたらいいわね」って言ってくれたんですけれども、その翌年、僕は合格するという。ちゃんと試験を受けていますよ。でも、そうやって言っておくことです。今まで前例がないからだめではなくて、新しい事例をつくっていくことが新しくつくり出していくことなので、今までできないからだめだと言い続けたら、世の中の学校もそうですし、人間もそうですけれど、成長、進化、発展は止まると思っています。 ●写真 スクリーンの前に立ち、話している河合氏。文字のみのスクリーンで、タイトルは「1996年アトランタ大会(21歳)」。「金2個」「感謝の気持ち」が赤文字で映し出されている。 ■教師をしながらシドニーを目指す 河合/ 教員をしながら次はどうしようかなと思っていたんですが、25歳でシドニーパラリンピックに出場することにしました。教師をしながらですので、練習も大変でしたね。朝7時半には学校にいて、18~19時まで仕事をするなか、生徒と一緒に練習したり、終わってから練習しながらシドニー大会に臨むことになりました。  先ほど言ったように、夢を追いかけるとか、夢先ほど言ったように、夢を追いかけるとか、夢を叶えるってとても大切だし、すばらしいことなんですけれども、どうやって叶えたらいいか、叶える姿を見たことのない人のほうが多いじゃないですか。子どもたちもね。だから、こんな身近に子どもと接することができるからこそ、僕がもう一度チャレンジする意味はあるってことを子どもに教えられたんですね。生徒に「先生はシドニーに行かないの」って言われたときに、お金を払えば飛行機で行けるよ、みたいな返しをしてはいけないので。一生懸命練習して挑戦する決断をしたということです。結果は、金2個と銀3個を取ることができました。順調に取ったように思われますが、実は全然取れなくて、大会11日目、いわゆる水泳競技の最終日まで銀3つで、あとは取れませんでした。当時、日本選手団の主将、全競技のキャプテンとしてシドニーに乗り込みつつも、なかなか結果が出せないという非常に苦しい状況がありました。でも、自分の信じてきた練習と、仲間を信じて、最後泳ぎ切って個人で金メダルを取ることができて、もう一つの夢であったリレーで金メダルを取りたいという夢もここで実現することができました。やっぱり総合力の勝利だったと思っています。そういう経験をして、シドニーは本当にいい思い出だったと思っています。 ■“チーム河合”で挑んだアテネ 河合/ そして、2004年アテネ大会ですが、教師をしながらもう一回続けるのは厳しいと思って、教師としてのレベルアップも含めて早稲田大学大学院に進学して、教育学を研究しながらアテネを目指しました。このときの大きなポイントは、栄養士やトレーナー、マッサージしてくれる方とか、今で言うマルチサポートです。スポーツ医科学サポートみたいなものを、仲間や知り合いに紹介してもらって自分の“チーム河合”みたいなものをつくることができたのが、大きかったと思っています。それまでの人と人のつながりを大切にしてきたことがつながったのではないかなと思っています。そのおかげで、アテネでも何とか3連覇、金1個と銀2個、銅2個という結果で、20代は3大会とも50m自由形で負けることなく終えることができたという、いい結果に終わったと思っています。  学院も修了して、その後どうしようかなと思い、北京をもう一度目指すことにしました。アテネ大会後、静岡の教員に3年間戻ったんですが、その3年後に異動して、静岡県の教育委員会で指導主事という仕事をしていました。これは教師の先生みたいな形ですかね。そういう形で仕事をしていたんですけれども、北京大会の出場も目指して練習していました。結局パラリンピックはテレビや新聞もまだまだで、98年の長野があったことで変わってきたと思いながらも、そこまでではなかったなかで、コメントできる立場は選手しかないと思い、選手として努力し、練習する中で、まだまだ厳しい現実がありますよっていうことを正しく伝えようと思っていました。 ■日本パラリンピアンズ協会設立へ 河合/ 今私が勤務しているところですが、東京に国立スポーツ科学センターがあります。ここは当時の文部科学省がオリンピックのメダルを取るためにつくった建物で、その中にプールがあったんですが、ここを使いたいと2001年とか2003年の頃に言ったときに、厚生労働省ではないので使えませんとか、パラリンピックのためにつくったわけではないので使えませんと断られていたんです。でも僕からすると、オリンピックのメダルを取るために使う場所だっていうなら、オリンピックを開催している1カ月間は普通空いていますよねと言って、その1カ月だけでも借りられないですかと交渉しました。そして使えるようにして、アテネで金を取ったという時代でした。やっぱりそういうことでもしなければできない。国とかに対して、本当に怒っていたんですよね。  でも、そういうのを正しく冷静に伝えないと、当時マスコミの人たちも全然そんなことは知らないし、報道もしないし、という状況だったので、選手として正しく伝えようと思って頑張ったわけです。実は2003年から、先ほど言った日本パラリンピアンズ協会を立ち上げていたんですけれども、それに一生懸命つなげることができたと思っています。 ●写真 来場者に向けて笑顔を見せて話している河合氏。後方には手話通訳者。 ■6大会連続メダル獲得への挑戦 河合/ 2012年のロンドン大会は、自分としては最後かなと思いながら勝負をしたんですけれども、4位入賞ということで、自己記録は更新できましたが、残念ながらメダルを取ることはできませんでした。でも、パラリンピックを生み出したイギリスという国での大会に出場したということは大きなことですよね。6大会連続でメダルは取れなかったけれど、挑戦できる立場は本当に自分しかいないんだ、という思いをもっていたということです。 ■2020年に向けて“アスリートファースト” 河合/ では、2020年に向けてということですが、どうやって成功させていこうかっていうことですけれども、ひとつは、ここにある“アスリートファースト”という言葉です。よく耳にするようになったかなと思います。本当の意味で、今、アスリートファーストのオリンピック、パラリンピックを目指しているのかっていうことはありますけれどもね。  パラリンピックの選手というのは、車いす、視覚しょうがい、義足の方、小人症の方など、いろいろな方がいます。パラリンピックの選手たちも使いやすい環境をつくれば、オリンピックの選手が使いにくいわけがないのです。世界中がそう言っています。ですから、そういう良い環境をこれから、施設あるいは選手村、さまざまなところでつくっていこう、考えていこうと思っています。 ■身近なユニバーサルデザイン 河合/ そのキーワードが「ユニバーサルデザイン」ということになります。この言葉は聞いたことがあるかもしれませんが、文化、国籍、宗教とか民族もそうですし、男性、女性とか年齢とかしょうがいのあるなしにかかわらず、誰もが使いやすいデザインや設計というのがユニバーサルデザインになります。いろいろなユニバーサルデザインがあると思います。有名なのはシャンプーのボトルで、ギザギザが付いているのがシャンプー、まっすぐなのがボディーシャンプー、何もついていないのがリンス、みたいな感じが今一番大きいかなと思うんですけれどもね。  他にも、ヤマト運輸の不在通知票を見たことがありますか。端がネコ耳に切り取られています。目が見えない人は家に宅配の不在通知が入っていても、不在通知だってことがわからないから、ゴミと思って捨ててしまうかもしれないですよね。わかるようにするためにこういう入れ方をしたそうです。これだったらネコ耳だから、クロネコさんだなってわかるじゃないですか。他にもいろいろなことを皆さんが工夫すればいいのになと思っています。  この耳の切り込みが入っていたら、どうですか。目が見える人って邪魔ですか。あったら本当に困ってやめてほしいっていうクレームを言いたくなるぐらい困りますか。あっても困らないし、ちょっとかわいいなって思う人もいるかもしれない。だったら、こういうのは入れた方がいい。これがユニバーサルデザインなんですよ。  しょうがいのある方に合わせて何かを作るのではなく、誰にでも問題なく使えて、それがわかるようにすることです。点字を入れるのは、よく考えがちだけれども、点字の読める人って日本中に何人ぐらいいるか知っていますか。視覚しょうがい者が何人いるか知っていますか。しょうがいのある人って日本に何人いるか知っていますか。日本人が1億2,000万人ぐらいいますよね。このうち、いろいろな支援が必要な人は、大体1割いると言われています。これは世界共通で、国際連合も言っているのが、この10%から15%です。  でも、日本でいうと、いわゆるしょうがい者は手帳を持っていたりするんですね。身体障害者手帳という、しょうがいを証明する手帳があって、これを持っている人は6%ぐらいなんです。770万人ぐらい。そのうち、目が見えないとか不自由な人は約30万人なんです。全体で見ると少ないものです。では、そのうち点字が読める人はどれくらいでしょうか。たぶん1万人ぐらいしかいないです。ちなみに、盲導犬を使っている人はどれくらいいるか、皆さん知っていますか。少なくて広まらないと言っていますけれども、今、実際に日本で使っている人は1,000人ぐらいです。それぐらいインパクトはあるっていうことだと思うんです。やっぱりそういういろいろな視点を持って考えることが重要ではないかと思っています。 ●写真 河合氏の話を情報保障(パソコンテイク)で入力している学生たちの後ろ姿。その文字を投影する大画面のスクリーン。 ■愛用の腕時計 河合/ もう一つ、ユニバーサルデザインとして出しているのは、「僕の愛用の」って書いていますけれども、腕時計ですね。今日持ってきています。指で触ってわかる時計です。真ん中にボールがあり、このボールが磁石で動くようになっていて、回ってもちゃんと戻ってくるんです。これは、見えている人がつけてもいいようにデザインしたっていうところですね。僕の周りで使っている視覚しょうがい者でない人も結構いるんですけれども、「会議中とかさ、時計とかチラチラしているといやらしかったけど、下で触るとわかって、これなかなかいいんだよね」って言う人もいました。だから、いろいろな使い方があるんですよね。  ユニバーサルデザインは、誰かのためにオーダーメイドでつくるものではなく、誰もが使いやすいものをつくるということが重要ではないかと思っているわけです。それこそが一番ベーシックな考え方として捉えることが大切じゃないかと思っています。  先日、ある企業の方に会って、これはある自動車会社関係の方です。あまり「ある」と言ってもしょうがないですね。スポンサーのトヨタさんとお会いして、しょうがいのある方たちにも使いやすい車をどんどん開発してお役に立ちたいって言っていたんですね。こういう福祉車両を開発したので、河合さんぜひって言われたんですよ。それで僕は、「福祉車両に乗りたくありません。僕が乗りたいのはレクスのスポーツカーです」と言ったわけですよ。「格好いい車に乗れるように変えてくれませんか」って言ったら、ポカンとされました。でも結局、他人からいいなと思われるものに乗りたいとか、そうしたいっていう気持ちを形にしなかったら、モノって売れないですよという言い方をしておきました。でも、まさにそういう時代が近づこうとしていると思っているわけです。こういう発想を持っていくことが重要だと思うんですよね。  例えば立教大学も、しょうがいのある方たちのためにどうするか、大学がすべてを考えるよりは、例えば、しょうがい学生支援室でうまく補完をしながら、いい学生生活を送れるように考えようっていうのが一番合理的なやり方になるわけじゃないですか。もっとそれを進めていくための発想を、実際にいる学生たちからとか、いろいろな知見を持っている人から聞きながらやっていけばいいことだと思うんですよね。最初からベストプラクティスはないんですよ。そして完璧はないので、そういうことを目指していくきっかけが、このパラリンピックにあるんじゃないかと思っています。 ●写真 河合氏が所持する愛用の腕時計。磁石で動く、時間を示すボールがついている。 ●写真 スクリーンの前に立ち、話している河合氏。河合氏の後方に立つのは手話通訳者。 ■東京2020大会のエンブレム 河合/ 最後に、2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムについてです。最終的にこれに変わったわけですが、こっちでよかったという意見が多いです。触ってわかるようなエンブレムも実際に作られていますし、徐々に変わってきています。この作者の野老朝雄(ところあさお)さんという方に直接インタビューした時に聞いたんですけれども、テーマは「つながる」です。3種類の四角形を15個ずつ、45枚を組み合わせて、オリンピックもパラリンピックもエンブレムができ上がっているわけです。なぜ3種類の四角形を使ってチェッカー柄にしたのですかと聞いたら、「3という数字が社会の最小単位だからですよ」って教えてくれました。私とあなただと2人の人間関係だけで終わりますけれども、3人いると多数決になりますよね。そこに民主制とか、政治とか、力が働き出す。まさに社会の最少単位は3だと。違う形を多様性に置き換えて、調和を図ったものがこのエンブレムなんだと。2020年の大会が目指す本当の大きな目標は、「多様性と調和」が、これからの進化発展を社会に促そうっていうことにあると聞いたときに、もうジーンときましたね。  オリンピックが夏に始まり、2カ月かけてパラリンピックが終わるときには秋が実っていくという、エンブレムのこの丸さも、時間の移り変わりによって実がなることも表していていますと言っていました。そうやって見ると、また感慨深く見えてくるものですよね。そういう思いを世界に発信する役割が、私にも皆さんにもあるんじゃないかということです。こういうことを2020年に向けて皆さんと一緒につくっていきたいと思っています。  ボランティアの募集もしていくわけですけれども、ちょうど先日、東京の組織委員会がボランティア戦略を発表しています。特に大学生は大きく注目されていますので、もし興味があれば、2018年から募集予定となっていますし、7月から9月にかけて10日間以上活動してくれる人にぜひお願いしたいと考えています。  僕は昨日までオランダにいたのですが、実は今日の夜からタイのバンコクへ出張なんです。アジアのパラリンピック委員会の役員として行かせていただくんですね。そういうときに役員で行くと、ボランティアの方がついたりするんですよ。そういう方々は、役員の方と出会ったりする機会とか、オリンピック選手やパラリンピック選手と選手村で会話する機会も得られるんです。9万人ぐらい募集するんですよ。こんな機会は多分、皆さんが生きている間に二度と来ないと思われます。もし生きていても、80歳か90歳ぐらいの年齢になっている可能性があります。だって、オリンピック、パラリンピックは56年経ってやっとまた東京に来るわけです。そう考えると、今やるっていうのはすごく大きなポイントになることと、先ほどから言っているように、他の国の役員、例えば大企業の元社長さんや会長さん、王族、そういう国家元首に近いような人たちと会話したり、出会う機会があるわけです。皆さんは大学にいて総長と会話したことがありますか。普通なかなかないですよ。でも、それが起こるんです。できるんです。それがスポーツのすごさ、魅力なんです。言葉もいらないし。もちろんボランティアは言葉が必要ですが。そういうコミュニケーションが生まれる場が2020年、東京にやって来るということです。ぜひ、またとないチャンスを最大限生かしていってほしいなと思っています。  最後になりますが、こうやって話してきて、じゃあ皆さん、今日から何をしようっていうことですよね。ひとつ簡単なところでやってほしいのは、“誰かにしゃべって”ということです。今日の話がつまらなかった、でもいいし、何でもいいです。思ったことを人に伝えないと伝わらないんですよ。Facebook、Twitter、Instagramとかにどんどん、今日こういうのに参加してこうだった、と発信する。そこから誰かがまた感じるかもしれないということなんです。  先ほど言ったけれども、しょうがいのある人はたった1割しかいません。1割の人のために何かするのって経済効率で考えたら非常にマイナスです。こういう声も片方であるんです。でも、妊娠した方、ベビーカーを押している方、高齢者の方、あるいは、老眼でどうしてもリーディンググラスが必要な方。じゃあリーディンググラスがなくて困る人と弱視の人でメガネがないと困る人と、何が違うのかということです。困っているものは一緒じゃないですか。しょうがいのある人たちのことを考えて社会をつくっていくっていうのは、将来、自分たちが困るかもしれないときのためなんだっていう視点になると、しょうがいが他人事から自分事になってくるんです。しょうがいがある人は大変だね、ではなく、自分もなるかもしれない。我々は生きているから、いつか死ぬかもしれない。そのことを理解しているからこそ、生きているときにどうしようかって考えて、できることを頑張ろうって思うから、前向きさが生まれるわけですよね。こういうように、他人事じゃなくなるようになったらいいのかなとも思っています。  僕は昨日までオランダでいくつかミーティングを重ねて、市役所に行った後、リハビリテーションセンターでお医者さんたちとミーティングをしていた途中で、「さっき市役所で誰か老眼鏡を忘れた方いませんか」っていう話になったんです。見回したら誰もいないみたいなので、「僕、忘れたかも」って冗談で言ったんですよね。「何言ってんだよ」って僕の職場の仲間は言っていたんですけれども、オランダ人はまじめに聞いてしまって、「河合さんのために今からアムステルダム市役所に戻ります」と言いだしたから、「いやいや、何を言っているんですか、僕は見えないのでメガネいらないじゃないですか」と言ったら、チーンという顔をされて。嘘つきだとは思われていないと思いますが、ジョーク好きな日本人だっていうことで通ったと思うんです。でも、よく考えればわかるというか、まさにその、「想像力」じゃないですか。自分と違うからわからない、というのはわかるんです。僕は男性だから女性の気持ちは全くわからないです。男性同士だって男性の気持ちがわかるかと言ったらわからないんですから。そもそもわからないけれども、わかろうと努力するとか、やっぱりそれは想像するっていうことが重要ですよね。しょうがいの理解に重要なのは、私は感性と想像力かなと思っています。 ●写真(スライドより引用) 2020年東京オリパラエンブレムの図を含む説明のスライド。テーマである「つながる」は赤文字。 ■「熱さ=パッション」を伝えて! 河合/ パラリンピックというものが非常に大きく注目されて、スポットライトが当たっています。スポットライトっていうのは光を当てて、焦点化して際立たせることなんですよね。でも、スポットライトを当てると、見えないところに何が生まれているかわかりますか。光を当てれば当てるほど、影を生むんですよね。光と影がある。これは対になっています。ですから、パラリンピックが盛んになることで、例えば、聴覚しょうがいの方が行っているデフリンピックという大会のことが忘れ去られてしまうとか、なかなか気づいてもらえなくなるっていうような問題も片方で起こっているわけですよ。こういう課題をどうするか。僕が今日皆さんに伝えたいことは、光をもっと当ててほしい、ではないんですよ。“熱さ”を伝えてほしいです。熱なんですよ。人を動かすのはパッションだっていうことです。皆さんが情熱的にパッションを持ってしっかりと伝えれば、人には伝わるんです。感性の鈍い人には伝わる速度は遅いかもしれないけれど、必ず伝わります。感性の豊かな人はすぐに伝わります。まさにこのパッションを持っている人こそが、これからスポーツとか、道を切り開くために重要で、目には全く見えない思いを、形のないものを伝えていく作業を、学生のうちから身につけておくとよりいいのかなとも思っています。  ぜひ、今日お話したことの何かひとつでも参考にして、皆さんのアクションにつなげていただければと思っております。どうもありがとうございました。 ■質疑応答 大石/ 河合さん、ありがとうございます。もう一度拍手をお願いいたします。  次に質疑応答に移りたいと思います。質疑応答は、河合さんと、現役大学生であり、競泳選手として活動中の学生2人に並んでいただきます。壇上のセッティングをしますので、しばらくお待ちください。その間に質疑応答の際のお願いをお伝えします。発言される前に、所属、大学生の方は大学名、学部、学年、所属、名前をお願いいたします。スムーズな情報保障のために、発言はゆっくりはっきりとお願いします。手話で発言される方は壇上まで来ていただければ幸いです。その他の方は席までマイクをお持ちいたします。その場で立って発言できる方はその場で立ってお願いいたします。ご協力のほどよろしくお願いいたします。  今からパネリストをご紹介いたします。向かって右に河合さん。続いて、立教大学コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科1年生の鎌田美希さん。昭和女子大学人間社会学部福祉社会学科2年生の森下友紀さん。ここからの進行は河合さんにお願いしたいと思います。よろしくお願いします。 ●写真 壇上にいる司会者とパネリスト3名。来場者から見て左側から、立って手話をしながら司会をしている大石さん、座っているパネリストの森下さん・鎌田さん・河合氏。 河合/ 改めまして皆さん、こんにちは。よろしくお願いします。先ほど割とまじめに話したつもりなので、ここからは現役女子大生とお話をさせていただくということで、進めていきたいと思います。  まず、2人に自己紹介を簡単にしていただこうと思います。鎌田さんからでいいのかな。どうぞ。 鎌田/ 皆さん、こんにちは。コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科1年の鎌田美希と申します。立教大学の体育会水泳部に所属しております。  私は、生まれつき膝から下が欠損していて、1歳から義足を履いて生活しています。本当に小さいときから体を動かすことが大好きで、幼稚園、小学校のときは休み時間になると友達と鬼ごっこをしたり、鉄棒したり、とにかく外で遊ぶのが大好きでした。その中でも水泳がすごく大好きで、小さいときから水を怖がるということがなく、それで親が、水が好きなんだなっていうことを知って、2人で親子水泳に行ったのが水泳を始めたきっかけでした。  水泳は、義足を外してできるスポーツで、それが私にとって一番の魅力です。義足を外して体を動かすととても自由に体を動かせるというのがあって、それで水泳を始めて、どんどんのめり込んでいったというんですかね。夢中になって今に至ります。  今は400m自由形を主に専門の種目でやっています。私は腕を使って推進力を得ているんですけれども、足を使わない分、腕で泳ぐことで後半もバテずに泳ぐことができるのが自分の持ち味と思っています。なので、長距離を専門としています。  現在は、4年後の東京パラリンピックに出場することを目標に練習に取り組んでいるのですが、世界のトップアスリートの泳ぎを見たときに、足がなくても足を使って泳いでいるような泳ぎであったり、腕だけじゃなくて体全体を使って泳いでいる泳ぎを見てすごく衝撃を受けました。私でもできるんだっていうのをすごく感じて、今はその泳ぎを目指して、他の大学生と一緒に練習しながら、4年後に向けて頑張りたいと思っています。本日はよろしくお願いいたします。 ●写真 マイクを持って話す鎌田さん。 河合/ では、続いて森下さん、どうぞ。 森下/ 皆さん、こんにちは。昭和女子大学人間社会学部福祉社会学科2年の森下友紀と申します。私は今回リオデジャネイロパラリンピックに出場させていただきまして、個人5種目、リレー2種目に出させてもらいました。個人では4つで自己ベストを出し、リレーはメンバーのおかげもあって、入賞させていただくことができました。  パラリンピックには初めての出場だったので、すごく楽しかったですし、緊張もしましたし、いろいろな気持ちを経験させていただいた試合でした。選手村では、先輩たちといろいろな話をして、私が考えていることが甘かったなっていうのもあったし、先輩たちは本当にすごく考えて水泳をやっていらっしゃるんだとか、姿勢とか、たくさんのことを学ばせてもらって、もっと実力をつけて、東京を盛り上げていけるようになりたいなと思っています。  私が水泳を始めたのは、5歳のころです。私は水がとても苦手だったらしく、お風呂に入って髪を洗うときに水を怖がってしまうのもあって、親が心配してスイミングスクールに入れたのがきっかけでした。小学校5年生くらいまではずっとパラリンピックの存在を知らず、健常者の人たちと泳いでいました。小学校5年生でスイミングスクールに初めて選手コースができて、やりたい人はやっていいよ、みたいな軽い感じの選手コースだったので、タイムはかったんですが気持ちだけで入れてもらいました。そうしたら、選手コースで出た大会では、私は手に欠損があるので、自由形しかルール的に出られませんと言われてしまい、本当はバタフライが専門種目なんですけれども、ちょっと悔しいながらも自由形を専門にしてずっとやっていました。  小学校6年生ぐらいのときに、今所属している千葉ミラクルズというしょうがい者のチームに出会いまして、大会に出場するようになりました。パラリンピックのことも知りました。中学校2年生ぐらいから日本代表として何回か大会に出場させてもらっていたんですけれども、ロンドンでは全くパラリンピックに絡めるような選手でもなく、ただ泳いでいるだけの選手でした。  リオの前に専門種目であるバタフライの形を変えて、両手で泳いでいたのを、左手は前に伸ばしたまま右手だけで泳ぐという形に変えたところ、私にはその泳ぎ方が合っていました。リオの標準タイムも全然切っておらず、その1年前の世界選手権にも出られなかったんですが、リオの選考会のときに、乖離(かいり)率という、メダルの可能性というパーセンテージで選んでもらうことになりました。  乖離率で選んでいただいたので、先輩たちには劣っているのは自覚していましたし、決勝に残りたい気持ちはあったんですけれども、まだまだ実力が足りず、決勝には残れなかったものの、たくさんの経験をして、これから東京ではメダルを取るような選手にならないといけないという自覚も持ちました。今までの努力では全然足りないということもわかったので、気持ちを入れ替えて頑張っていきたいと思っています。本日はよろしくお願いします。 ●写真 マイクを持って話す森下さん。 河合/ ありがとうございました。僕も知らないようなことが聞けてとても面白かったなと思います。ここから時間がありますので、皆さんとコミュニケーションがとれればなと思っています。ざっくばらんに何でも聞いてください。どうですか。特になければ、まず、僕の話を2人は初めて聞いたでしょう。河合さんにもこんな若いころがあったんだとか、何でもいいですけれども、どうぞ。リオを経験している森下さんからいってみましょうか。 森下/ 河合さんのお話を聞いて一番びっくりしたのは、コーチがすごく若くて細かったことです。 河合/ 昔は100kgいっていなかったんですよ。僕が出会った当時は。 森下/ 初めて聞くことが多かったので、すごく勉強になりましたし、やっぱり私も熱だけはあると思っているので、いろいろな人に伝えていきたいなと思いました。 河合/ なるほど。ありがとうございます。では、鎌田さん、どうですか。皆さんが質問したくなるようなことを言ってくださいね。 ●写真 笑い合っているパネリストの3名。 鎌田/ 私は今、大学生なので、大学当時の河合さんの話にすごく興味があったっていうか、すごく惹かれたんですけれども。教師の免許を取りながら、練習にも取り組んでいるっていうのが、今自分がこうやって大学生活をしていてすごいなって正直思ったのと、今の私は本当に水泳部の活動で一生懸命になっていて、他のことに目を配るっていうのがすごく難しいっていうか、だんだん視野が狭くなっている気がするんです。やっぱり夢があったから頑張れたっていうのはあるんですか。 河合/ そうですね。コンパに行くとか、そういう時間はなかったですよね。憧れではあったんですが、行けなかったし、行かなかった。でも、自分が今何を一番したいのかとか、将来に向けて今の時間を何に使うのが一番大切かっていうことを考えた結論だった。僕はキャンパスが高田馬場で、家もその近くに住んでいたけれども、1時間目の授業は、朝起きるのが苦手だったのでほとんど取っていなかった。でも、9時からはだいたいプールに行っていた。1時間ぐらい泳いで、その後、2時間目から授業に行くっていうのが基本で、学部のときはそうだね。2、3、4時間目を取って、その後、所沢に移動して泳いで帰ってくる、みたいな生活をしていていました。高跳びの選手だった先輩が、全国で勝った人の話を聞いて、高校時代から、サンダルのかかとの部分を全部切って履いていたと。つま先立ちでずっと生活することで、日常から鍛えるっていう姿勢だったと聞きました。だからといって僕はサンダルを切ってはいないけれども、電車に乗るときはできるだけつり革につかまってつま先立ちするとかして、30分トレーニングと思ってやっていたなと思います。だから、傍から見ると、あの人アホなんじゃないのとか、思われたと思うんですよね。でも、アホと思われたって金メダルを取れたほうがいいなって思えるかどうかの違いだったかなと、今は思います。どうですか、森下さん、大学生活は。 森下/ 私も大学で、社会福祉士を目指しているんですけれども、河合さんは教員免許を取るときに実習とかってありましたか。 河合/ あった、あった。教育実習に行った。 森下/ 実習と水泳は、どういうふうに両立されていましたか。 河合/ 実習のときは、僕は3年生でパラリンピックは終わっていて、4年生のときはそんなに激しくなかったので、2週間普通に実習に行っていました。僕のときはまだ教育実習は2週間でよかったので、2週間のうち2回か3回は児童、生徒と泳いだかな。とはいえ、やっぱり実習は忙しかったですよね。実際に教員やってからもそうですけれどもね。  授業は、今の時代で思うとどうだろうな、今もし僕が大学生だったら、4年で卒業するっていう選択をするかって言われるとちょっと悩むなとは思う。20年前だから今のような形が取れたんだろうなとは思いますけれどもね。本当に資格も取りながら4年間でやって、全部を取ろうと思うともっとしんどいと思いますね。恐らく。  だから、そこはよく考えたらいいんじゃないかなと思います。皆さんも悩むと思うんですよね。将来とか、今やりたいことと両方リンクしていればいいんですけれども、リンクさせる努力はしたほうがいいかなとは思います。  せっかくなので、森下さん、リオの感想も少し。鎌田さんも国際大会はいろいろ経験しているけれども、何がどう違って、どれぐらい観客がすごかったのか、ちょっとエピソードまでにどうぞ。 森下/ 私は世界選手権にも出ていなくて、アジア大会までしか出たことがなかったので、全世界の選手がいるっていう試合が初めてで。私が活字で見ていた、世界ランキングで見た上位の選手がたくさんいるっていうことがまず驚きでした。選手村も雰囲気が全然違うし、一番違うなって感じたのが招集所での雰囲気でした。リレーは結構和気あいあいとしているんですけれども、100mバタフライのときに10位で補欠2番ということで、一応、決勝の招集所にいました。そのときの空気がすごくピリピリしているものがあって、もう入っていられないなと。私は補欠で、他の選手がみんなそろっていることがわかっていたので、少し楽な気持ちだったんですけれども、決勝に残っている8人の選手っていうのは、殺気立っているような人もいれば、余裕を醸し出しているけれども何かすごく熱いものがあるような目をしていたりとか、私もあんなところで戦いたいなっていう気持ちにはなりました。  予選しか出ていないんですけれども、観客の数がすごくて、リオの場合は試合会場が、プールの全部角度から、周りを人で囲まれていたので、特にブラジルの選手でダニエル・ディアスというすごい選手がいるんですけれども、その選手が出る日とかは、予選からすごい人の数で、ここはどこだと思ってしまうような感覚があって。ちょっと浮き足立っちゃうような感じはあったんですけれども、ブラジルの選手の応援が、私に応援されているかのように思えるくらい気持ちが高ぶっていたので、結果的には自分の実力は出せたかなと思っているんですけれども、それくらい、自分の実力を引き出してくれるような会場だったのかなと思いました。 ●写真 森下さんがマイクを持って話し、森下さんの右隣に座っている鎌田さんは微笑んでその話を聞いている。 河合/ なるほど。今の話を聞いて、ここに行きたくて行けなかった鎌田さんの思いとか、逆にテレビを見ていて思ったことをちょっと教えてください。 鎌田/ 私は、選考会で選考から漏れてしまって行けなかったんですけれども、それが結構悔しくて、正直レース映像を見ていませんでした。でも、森下さんとかが帰ってきてお話を直接聞く機会があったときに、やっぱり私も実際に見て感じてみたいっていうのがすごくあって。やっぱり4年後は地元開催っていうのがすごく魅力的っていうか、こういうチャンスは、皆さんもそうですけれども、私にもこういうチャンスはもう二度とないと思うので、自分でつかみ取りたいという思いはすごく強くなりました。 河合/ なるほど。でも、その悔しさをもっと強くするために見ておいたらよかったんじゃないの。見ないで何か悔しいな、見るのが悔しいなと思うより、見て、この悔しさを忘れてやるか、みたいな。森下さんも聞いているかもしれないけど、女子のすごく有名な強い選手で、競技場に入った瞬間から性格が悪い女になるって言い切っている人がいるよね。もう人に嫌われようと私は誰にも負けないわ、みたいな顔をして招集所にいるよっていうことを公言している先輩もいますからね。やっぱり悔しいのは忘れられない経験だと思うので、今からでも遅くないので、いつでも振り返って見ていただければなと思ったりもしますね。  では、皆さんのほうからも、せっかくいろいろな経験を2人もしていますので、僕に対してでもいいんですけれども、質問をお受けしたいんですが、いかがでしょうか。 参加者A/ 立教大学教員のAと申します。本日は非常に貴重なお話で、私どもがこれからオリンピック・パラリンピックの支援をしていく良いキックオフのお話を伺えたかなと思いました。  河合さんをはじめお二人の学生さんに、アスリートとして続ける極意みたいなところをぜひとも教えていただきたいと思います。学生のお二方もそうなのですが、さらっと4年後のオリンピック・パラリンピックを目指しますとおっしゃるんですけれども、私のような人間はお正月に立てた目標も忘れてしまうくらいでありまして、4年後というのは非常に長いんだなということをあらためて感じたのです。  立教大学は、2020年を目指してさまざまな支援をしていきたいと思っているのですが、大学のビジョンは、2024年までを想定しています。そういう意味では、2020年は1つの通過点に過ぎず、2024年までを考えながら、オリンピック・パラリンピックと立教大学の教育・研究をどうつなげていくかということを考えているのです。ですので、続ける極意みたいなものがあれば、ぜひ教えていただきたいです。特に河合さんは何度もパラリンピックに出場なさって、どうやったらそういうアスリートとして続けていく気持ちをお持ちになれるのか、学生のお二方もまだ若いのに、どうしてそんなにさらっと4年後を目指しますと言えるのか、ぜひとも教えてくださればと思います。よろしくお願いいたします。 ●写真 会場前方より見た客席。1名の参加者が立ち上がり質問している。 河合/ では鎌田さんからいきますか。 鎌田/ 私も性格的には結構飽き性なので、何事もすぐ飽きるんですけれども、私がここまで続けているのは、やっぱり水泳が好きだからっていうのと、あとは何事も楽しんでやることが一番続けられる秘訣かなと思います。練習ももちろんすごくしんどいですし、調子が悪いときは特に、もう練習やめたいなと思うときもあるんですが、それ以上に、しんどいけれどもやり遂げた後に楽しいとか、やった自分すごいとか、そういうどこかにいいところを見つけて、それに浸って楽しんでいると、本当にあっという間に時間が過ぎていく気がします。なので、それが私にとって続けられる秘訣かなと思います。 ●写真 鎌田さんがマイクを持って笑顔で話し、鎌田さんの右隣に座っている河合氏は落ち着いた様子で、話を聞いている。 河合/ なるほど。では、森下さん、どうですか。 森下/ 私も鎌田さんと同じで、水泳が好きだっていうのが一番なんですけれども、今回、リオに出させてもらってすごく悔しい思いをしたんですね。100mバタフライでも、あと1秒ないくらいで決勝に進めなくて、自分の目標が100mバタフライで決勝に残るっていうことだったので、達成できなかったことにすごく悔しさが残って、やっぱりパラリンピックで結果を出すっていうことにすごくこだわるというか、そういうことを強く言っている先輩方がいっぱいいるのがわかって、そこで結果を出したいっていう気持ちがすごく芽生えて。だから、今までは東京までって思っていたりもしたんですけれども、そういうことではなくて、パラリンピックに出たい、パラリンピックで結果を残したいという気持ちがすごく出てきて、それが原動力になっています。辛い練習があっても、ここができた、ここがもっとできれば次はここができるとか、そういういろいろな目標が明確に見えてきて、それをひとつずつ、少しずつクリアしていく、みたいなところがすごく楽しくて。やっぱり楽しいっていうことが大前提なんですけれども。辛いって思ったらそこで終わっちゃうんですが、楽しいって思えていることが続けていられる理由なのかなとは思っています。 ●写真 マイクを持って笑顔で話す森下さんのアップ。 河合/ なるほど。やっぱりそういう経験をして、いろいろ見えてきたっていうことですよね。僕は6回行かせてもらったんですけれども、基本的に2人と同じところがあって、やっぱり好きだっていうことなんですよね。水泳が好きっていうのは大前提でした。だから、皆さんが立教に対する愛があるかどうか、好きだということがまず重要で、それをよくしたいとか、多分共通するんだと思うんですね。  もうひとつは、鎌田さんと似ているんですが、僕も飽き性なんですよね。なので、違う環境とか、違うものとか、人とか、いろいろな刺激をもらって自分に取り込むっていうことを繰り返してきたのが人生なんですね。バルセロナは高校時代、アトランタは大学、シドニーは教員、アテネは大学院、北京は教育委員会、ロンドンはまた別の仕事をしているとき、というように、自分の置かれている環境を変えたり、練習環境を変えることでもっと楽しみを見つけるっていうのは、自分の生き方に割と合っていたんだろうなって思いますね。なので、楽しくやるためにどういう環境整備をするかは、大きなポイントかなと思っています。ご存じのように、今回日本は、水泳だけではないですが、パラリンピックでは金メルゼロに終わるということになりましたので、東京では必ず、パラリンピックで金メダルを取るっていうのは日本としての大きな目標でもあります。なので、この2人も含めて頑張ってもらわないとなと。  森下さんはリオに行って、決勝に残りたいと思っていて、予選のときに出したタイムはほぼ目標にしたタイムだったんですか。 森下/ ベストではあったんですけれども、決勝ラインはこのくらいだと思って目標を立てていたタイムよりは、1秒くらい遅かったです。出せていれば、本当に決勝に残れていました。そこまでは達成できなかったっていう悔しさがあります。 河合/ そうすると、次に出すためにどうしたらいいですか。 森下/ メダルを目指すために立てたタイムだと出せないことが今回わかったんですね。やっぱり世界ランキング1位のタイムを見ながら、そこに行けるような、金メダルを目指せるようなタイムをちゃんと設定していかないと、決勝進出すらできないかもしれないし、メダルにも絡めないと思いました。 河合/ なるほど。というふうに見ると、実際に参加すると変わってくるということですが、鎌田さんどうですか。今のを聞いて、目標の設定の仕方は。 鎌田/ 今の話を聞くまでは、本当に決勝ラインのタイムとかしか見ていなかったんですけれども、やっぱりそこじゃなくてもっと上の、ハードルを高くしていかないと、見上げる視線も変わってくるのかなと思うので、もう少し上を目指していきたいと思います。 河合/ そうですよね。多分2人は、クラスはしょうがいによって違うんですけれども、やっぱり同じ仲間でありながらライバルであり、本当にいい意味で見習いながら一緒にやっていくっていうことがとても大切だなと、皆さんも聞いて思ったと思います。やはり経験すると見える世界観は変わるし、年齢とかいろいろなものによっても変わってくるんですが、経験できる人は限られているので、経験した人から聞いたり、学んだりということは重要です。学生の皆さんもそういう視点で物事を考えるといいのかなと思います。A先生の話からのびましたけれども、もう1人、2人いかがでしょうか。 参加者B/ 私はKDDIの人事部ダイバーシティ推進室に所属しておりますBと申します。私は、会社でしょうがいのある社員の活躍支援を担当しております。私どもはアスリート採用を行っていないんですけれども、社員の中に卓球で東京パラリンピックを目指したいという社員がおりまして、私のほうでその支援を考えたり、企画したり、実行したりしていくという業務をしています。  河合さんにお伺いしたいのが、教員、また教育委員会で勤務しながら練習し、かつパラリンピックで非常に高い目標を掲げてメダルを獲得されたとお話いただきましたけれども、県のほうでどういう支援をされていたのかと、あと、どういう支援をしてもらいたかったかということをお伺いしたいと思っています。 河合/ わかりました。シンプルに言うと、今あの当時と同じ生活をしたら、多分死んじゃうだろうなっていうことですね。結果も出ないだろうなと思います。若かったからできた、時代がそこまでだったからできたっていうのは結構大きなポイントだと思います。本当に今目指したいなら、中途半端なサポートの仕方をしてもお互いのためにならないのでやめたほうがいいだろうなということです。  合宿あるいは大会に行く場合には、特別休暇として県に休みをいただいていましたけれども、その他でのサポートは、公務員としては別に何もありませんでした。普通に9時から17時の勤務をし、必要があれば残業する、教育委員会のときなんか、20時から23時ぐらいまで練習して、朝5時に起きて、6時には電車乗って職場へ、みたいな生活をしていました。けれども、あれは多分30代前半だからできただけで、あれをやってメダルにつながるとは今は到底思えないので、もしも本当に卓球で目指したいというのであれば、アスリート雇用ではないとはいえ、半日の練習にするとか、そういうことをしないといけないと思います。  オリンピックほどではないですが、パラリンピックも海外遠征、特に卓球は出場権を得るのにワールドカップのツアー転戦がほぼマストになっていて、多分、半年ぐらいは日本にいないことも覚悟しないといけなくなると思うんですね。なので、本人とそこはしっかりと話をしたうえで考えたほうがよくて、競技をしながら仕事としてのキャリアをどう考えるのか。その先も含めてよく話をしたほうがいいのかなと。楽しくっていうぐらいであれば、社内に卓球台を置いて休み時間にみんなでやるっていうほうが、むしろ盛り上がるとは思いますけれども、本人の希望とはだいぶ変わる可能性があるので、そこはニーズ等を把握したうえで、という気がします。今、しょうがいのある方の卓球レベルは世界的に見て、日本は高いと言えない現状があります。逆に、オリンピックでのレベルは高いので、高い環境とか指導はできる人が増えているのも事実なので、いい意味で連携できると、つながる可能性はあるかなという感じがします。では、他にいかがでしょうか。 ●写真 会場前方で座っている来場者が質問しているのを、パネリストの3名が聞いている。河合氏の近くに手話通訳者が立っている。 参加者C/ こんにちは。河合さん、今日はためになるお話をありがとうございました。  私も小学校1年生から高校3年生まで水泳をやっていました。最初は、リハビリから始めて。場所は、東京都北区の障害者スポーツセンターです。学校にチラシが貼ってあったので、そこに行っていたんですけれども、水泳大会に出てみたら、なんとメダルを取りました。やっていたのは背泳ぎです。メダルを取ってから、鎌田さんと一緒でやみつきになりました。中2のときにもう水泳は行きたくないという感じで辞めたくなったときもあるんですけれども、親の支えや学校の先生、水泳の先生の支えがあって、毎年そのスポーツセンターの大会に出てメダルを取り、2000年に、障害者国体の水泳部門に出て銀メダルを取りました。大変な思いもあったのですが、だからこそ国体に出てメダルを取れたということがあります。今は、忙しくて、疲れもあって水泳は行けていないのですが、また機会があったらぜひ河合さんたちのように、水泳を続けたいと思います。 河合/ ぜひ続けてください。僕も今、月に1回ぐらいしか泳げていないのです。時々泳ぐのは僕もいまだに楽しいので、またぜひ一緒に泳ぎましょう。  では、どうでしょうか。皆さんから質問をいただきながらいろいろな話をさせていただきましたけれども、また何かありましたら、Facebookとか、何か連絡いただければお答えしたいと思っております。立教大学の皆さん、何かありましたら、鎌田さんに聞いていただければ何でもお答えしますし、困ったら多分、連絡が来ると思うので対応はしたいと思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。今日はどうもありがとうございました。 大石/ ご質問いただいた皆様、ありがとうございました。他に質問したい方もいらっしゃると思いますが、時間の都合のため、いったん終わりにさせていただきます。もし、さらに質問したいと思う方がいらっしゃいましたら、この後、会場内で個別に質問を受ける時間をつくりますので、そこでお話いただければと思います。  最後に閉会の挨拶をしょうがい学生支援室課長の菅谷さんにお願いしたいと思います。菅谷さん、よろしくお願いいたします。 ●写真 奥からマイクを持っている森下さんと鎌田さん。その手前に笑みを浮かべながら話を聞いている河合氏。 ■閉会の挨拶 菅谷/ しょうがい学生支援室の菅谷と申します。皆様、本日の講演会はいかがでしたでしょうか。9月に開催されたパラリンピックの記憶がまだ新しいなかで、本日、日本のしょうがい者スポーツを牽引され、パラリンピックの運営に直接関わっていらっしゃる河合さん、それから、競技者として日々練習を続けているお二人の話を大変新鮮な思いで聞くことができました。貴重なお話をありがとうございました。また、土曜日の午後にもかかわらず多くの方にご来場いただきまして、心から感謝申し上げます。  講演会の冒頭に阿久津部長から、本学の150周年に向けたビジョンの中で、オリンピック・パラリンピック日本開催に向けたプロジェクトが位置づけられていること、そして、この活動が既に動き始めていることについて紹介がありました。開催地が東京に決定した2013年9月から既に3年がたちました。本日の講演会が、来場された皆様にとっての2020年に向けた一歩を踏み出すきっかけとなることができましたら、大変うれしく思います。 この講演会の開催にあたりましては、しょうがいのある学生とサポート学生が協力し、役割分担を決め、打ち合わせを重ねて準備を進めてまいりました。しょうがい学生支援室としましても、しょうがいのある人たちの活躍を支援し、情報発信ができるよう、河合さんがおっしゃる「熱」を伝えられるよう、何らかの役割を担っていきたいと思っています。今後も皆様からのご理解、ご指導を頂戴できれば幸いです。  最後になりますが、本日お忙しい中ご講演くださった河合純一さん、そして、森下友紀さん、鎌田美希さんに改めてお礼を申し上げます。本日はありがとうございました。 ●写真 マイクを持ち閉会の挨拶をする菅谷氏。菅谷氏の後方に立つのは手話通訳者。 大石/ 菅谷さん、ありがとうございました。本日の講演は2020年の東京パラリンピックを身近に感じ、しょうがい者スポーツを知るいい機会になったと思います。私にはできない河合さんの多大な努力、貪欲な姿勢に感銘を受けました。私もできないことを考えるのではなく、できることを一番に考え、積極的に行動していきたいと思いました。  次に、事務連絡が2つございます。1つ目は、アンケートに関するお知らせです。講演会が始まる前に資料をお配りしたと思いますが、その中にアンケートが入っています。そちらに記入をお願いいたします。記入が終わりましたら、会場の外にアンケート回収箱がございますので、その中に入れてください。アンケート用紙のない方がいらっしゃいましたら、お近くの学生スタッフにお声がけください。  2つ目は、本日、講演いただいた3名とお話をしたい方がいらっしゃいましたら、この後、15時45分まで時間を設けますので、その際に3人とお話ししていただければと思います。  これをもちまして、講演会を終了いたします。本日はどうもありがとうございました。お気をつけてお帰りください。 ●写真 会場後方より見た会場の全景。 ■当日の様子 最終ミーティングで流れを確認 ●写真 教室前方でリーダーの学生が立って話し、学生スタッフ・職員が座って聞いている。 パソコンテイク ●写真 情報保障(パソコンテイク)として使用するノートパソコンを使って連携練習をしている6名の学生たち。 受付にて ●写真 4名の学生スタッフが受付を担当。車いすを利用している学生が一般来場者の受付を行っている。 笑顔で案内・誘導 ●写真 誘導班担当の2名の学生が並んでいる。2名とも、当日呼び込みで使用した案内版を持っている。 講演者と交流 ●写真 学生スタッフ5名が講演者の河合氏、森下さん、鎌田さんと談笑している。写真手前は車いすを利用している学生2名。 講演者を囲んで集合写真 ●写真 40名ほどの講演者・学生スタッフ・職員が集まっている。 以上